小原谷

小原谷(滋賀県高島郡今津町)

昭和49年頃廃村


長い歴史ある故郷の灯を消し、そこから去っていく者の思い
生まれ育った故郷が永久に消え去ることの悲しみ
その思いを、はかり知ることはできない
ただ、故郷を思い出すことはあっても、もう再び現れることはない
このことだけが冷たく目の前につきつけられる
そして、故郷を思う者が消えるとともに
故郷によせられていた思いも永遠に消えていく





大津から鯖街道(R367)をずっと北上すると、R303と合流する少し手前あたりに椋川方面へ分岐する道が左手に現れる。そこを左折し道なりに進んで、椋川で 寒風麻生林道に入って北に向かう。寒風川に沿って走る道である。そうするとしばらくして『であい橋』というコンクリートの小さな橋を見つけることができる。そこから寒風川に注ぐ支流の小川に沿って、福井県境方向に向かってのびる未舗装の荒れ果てた道があるが、これが廃村『小原谷』へ向かう道である。道幅はきわめて狭く、車が通ることもほとんどないせいか、わだちを隠すほどの草が道全体に覆いかぶさっている。通常なら、とてもじゃないが車で乗り入れようとはしないであろうその道を進むと、やがて道の左下に廃村『小原谷』が姿を見せる。いや、見せてくれていたと言うべきかもしれない。残念ながら、今ではもうその姿はほとんど見ることはできないのだ。かつては山深い景色の中に突如現れるような形で見ることができた家屋は、時の流れとともに崩れ落ち、朽ち果て、今はその残骸がわずかに見えるだけである。冬場になるとかなりの雪が降り積もるこの地方、人の住まなくなった家屋を自然に帰すことは特に難しいことではないのだろう。

10年以上も前の1992年に訪れた時は、いくつかの家屋の残骸がそれなりに残り、まだ集落の匂いを感じさせてくれるくらいであったのだが、2001年に訪れた時は、その姿をほとんど見ることができず、もう集落の匂いを感じることはほとんどなかった。倒れることを最後まで拒んだ柱とともに残った壁板、わずかばかりの瓦屋根・・・それらが、高くおおい茂る草木の間から見ることができただけである。こんなことなら、もっと写真に記録に残しておくべきだったなぁ、などと後悔しても、もうどうにもならないことだ。姿を消したものは二度と見ることができない、という当たり前のことを無念の思いとともに確認するだけである。


1992年7月撮影
寒風麻生林道より分岐し、『小原谷」に向かう林道。この時はまだ、道幅は狭かったものの草も刈られており、車の轍がはっきりと見えて走りやすかった。


1992年7月撮影
林道より見下ろした廃屋。初めて訪れた得は、何の予備知識もなく単に林道走行目的で訪れただけであった。だから突然廃屋が現れた時は衝撃的だった。それがこの景色である。そこが廃村『小原谷』とわかったのは、家に帰って調べてからのこと。この「道の終末での思いがけない出会い」は、今でも強く印象に残っている。


1992年冬撮影
かなり朽ちてはいるものの、まだ骨組みは何とか健在で家屋の原形を残している。


1992年冬撮影
なんとも堂々としたたたずまいではないか・・。破風の部分の骨組みが、非常に印象的だ。長年の間、厳しい冬を何度も越してきた誇り、というものを感じさせてくれる。


この村を最初に訪れた時のこと、村に向かう林道の終点の小さな広場にかなり大きめの檻が仕掛けられていた。猪か熊か、なにを捕らえるためのものかはわからなかったが、そのような獣が多いのだろう。ばったりと出会わないことを祈ったものである。ところが二度目に訪れた時のこと、写真を撮るために林道から集落の方へ降りて、崩れかけた家屋の中に入って写真を撮っていると、すぐ近くでガサッという音がする。まあ、気のせいだと思い写真を撮り続けた。すると再び音がする。そして続けてガサ、ガサ、バキッ、ガサッと先程より近い距離、というか、もうすぐ後ろで音がした。幸か不幸か、壁板があったせいか直接姿を見ることはなかったが、これはもう何も考えず逃げるしかない。一目散で土手を駆け上り車へと帰った。服、手はドロドロだった。結局、その音の主が何だったかはわからないが、一瞬冷や汗が出たことを今でもはっきりと覚えている。足元が悪い中で、真正面でご対面だったとしたら、もうこれは逃げようもない。猪か熊か、鹿か・・・、案外かわいい野ウサギだったのかもしれない。その正体がわからなかったのもロマンなのか・・・。


1992年冬撮影
大きく崩れてはいるが、奥にはまだ障子が残っている。もっと撮影を続けたかったのだが、これを撮影している時に、ガサッ、バキッという物音を聴き断念する。


1992年7月撮影
村に咲くガクアジサイ。山を訪れるとけっこう見ることができる。一般に言うところのアジサイと違い、花が周囲の4箇所しか咲かず、その様子が額のようであるのでそのように名づけられた、ということだ。


小原谷に向かう途中の椋川という集落に、『椋川山の子学園』という教育キャンプ場のような施設がある。かつて、今津西小学校椋川分校だったところである。たまたま、ずっと以前にそこで教職員として勤務されていた方に話をうかがう機会があったので、小原谷のことをきいてみた。その中で一番印象に残っていることは雪の日のことである。普通の日でも4〜50分はかかる小原谷からの分校への登校。大雪の日などは大変である。もちろん今のような整備された道ではない。おそらく普段より早く出発したのだろう。それでも学校に着くのはお昼前になることもあったそうだ。雪の中の歩行は、かかる時間以上に大変だったことだろう。それでも学校に来るたくましさ・・・。今の人間からは考えられない。もちろんあまりに雪のひどい時は登校さえもできなかったらしいが。


2001年8月撮影
この時は道がかなり荒れていた。この先、伸び放題の草木でもっと道が狭められている。


2001年8月撮影
村へと向かう林道の横を流れる川。寒風川の支流。この川で水力発電を行っていたのか・・。

2001年8月撮影
おおい茂る草木からわずかに見える家屋の柱や瓦。これもやがて倒れて、ついには見えるものは草木だけになってしまうのだろう。


2001年8月撮影
この写真撮影は、初めて訪れた時から10年近くたった時のもの。最初に見せてくれていた家屋は全て朽ち果てて倒壊し、これだけがかろうじて残っていた。しかし、これも今では自然にかえり、もう見ることはできないのだろう。


財)滋賀県文化体育振興事業団が発行している季刊誌『故国と文化』の1991年春号と夏号で二回にわたって、「滋賀の地図から消えた村」という特集が組まれている。これは私のバイブルである。その中でも廃村『小原谷』について書かれている。それによると、この村は昭和初期に4軒あった集落が、昭和31年に1軒が椋川に移り、昭和41年の豪雪で村が孤立状態になったことで離村の話が進み、11月に全てが村を去って離村となった、と書かれている。また、ここは県境を越えて福井県に出るほうが近く、檀那寺も福井県熊川の得方寺というところで、これは福井からの入植者によって拓かれた名残りらしい、とも書かれている。


2001年8月撮影
集落の奥の土地。荒れ放題の集落跡地とは違って、なぜか平らに整備されていた。


2001年8月撮影
いつの頃のものなのか、何に使われていたものなのか、これは朽ち果てることはないのだろうか・・・。


厳しい立地条件、自然条件、強制移住・・・など離村の原因はその場所によって様々であるが、この小原谷では離村の際にどのようなドラマがあったのだろうか。またこういった条件での長年にわたる生活の中でも様々なドラマがあったことだろう。現代の社会で失われてしまった大切なものも多くあることだろう。今となっては想像もつかないこと、それを自然の一部として受け入れざるを得なかった生活、一体どんなものだったのだろう、是非ともうかがってみたいものであるが・・・。
ちなみにこの『小原谷』、角川書店の滋賀県地名大辞典で調べてみても、字名、小字名ともに載っていない。おそらく製炭業を中心に生計を立てておられたのであろうが、詳細はわからない。もし、今後新たにわかることなどあれば追記してゆきたいと思う。


役目を終えたものは、ただ朽ち果てるのみ。
この家屋も役目を終え、後は自然に帰るのを待つだけだ。
主なき後、何度の冬を越したのであろうか・・。
雪おろしをされなくなった時、廃屋となったことに気づく
そして後は朽ちるだけ・・。
残骸というには、あまりに美しすぎる、
なんて感じるのは私だけ・・・だろうか。



【参考資料】

財)滋賀県文化体育振興事業団 季刊誌『故国と文化』1991年発行 春号・夏号


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