奥川並

奥川並(滋賀県伊香郡余呉町)

昭和44年離村


変わり果てゆく故郷を見るのは悲しくせつないが
灯りつづけたこの地の灯を消してしまう
そのことが何よりも心をしめつける
故郷を訪れるたびに熱く湧き出す 遠い日の思い
だがそれも すぐに冷たくしみこみ 消えてゆく
せめて 生まれ育ったこの地への思い
変わり果てようとも 故郷のこの地にしみこませたい
それが故郷の灯 我が命の灯を ともし続けてゆくこととなる
故郷去りし後も 我が心 故郷にあり





2006年9月撮影
高時川本流。栃ノ木峠を少し滋賀県側に下がった所を源とし、琵琶湖へと注ぐ。

2005年6月撮影
高時川の支流である奥川並川。この川の上流に集落『奥川並』があった。


遠く大阪湾に注ぐ淀川の源流とされる高時川、その上流の奥深い山間の谷に点在する廃村群、『小原』『田戸』『鷲見』『尾羽梨』『針川』『半明』。その『田戸』から東へ分かれる未舗装狭路をさらに岐阜県側へ山奥に4km程進むと、最奥の集落『奥川並』にたどりつく。ただでさえ山奥深いところを、さらに断崖絶壁の悪路を奥に入ってゆくのである。なぜこんな所に人が住んでいるのだろう?と、訪れた者は誰しも思うことだろう。しかしながら今でこそ廃村となってしまったこの地も、明治22年の頃には戸数36、人口187名を数え、今とは全く違った風景を見せてくれていた。山の幸だけでも生活してゆける時代だったということなのか、今からでは全く想像がつかない。現代を基準にものごとを判断をした場合、このような僻地に集落が存在する理由などどこを探しても見つからない。時代の流れとともに、人は住みやすくなったのか、住みにくくなったのか、いったいどちらなのだろう。少なくとも、自然に逆らって人間が生きている、ということは確かである。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
明治時代の頃の『奥川並』集落。多くの茅葺き家屋が所狭しと建ち並んでいるのがわかる。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
いつの時代の頃のものかは明らかではないが、遠い昔の頃からこのような風景が『奥川並』では見られたことだろう。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
これは廃村後に空撮されたもの。離村時には17戸の家屋があったというが、写真を見るとそんなには残っていないように見える。林道を右に行くと『田戸』に至る。


私が初めて『奥川並』の存在を知ったのは‘びわこ放送’という地元のTV局のニュース番組の1コーナー「地図から消えた村」を見た時であった。たしか1991年か2年の頃だったと思う。その中の映像の中に写されていた熊の姿、これが当時とても新鮮に感じた。そして番組が終わるや否や地図を広げ、早速場所を確認した。滋賀県最北の地、余呉町の奥の丹生地区、そこからまたさらに山奥深く行くという、その地理的な条件だけでも十分魅力的だった。また『奥川並』と書いて「おくかわなみ」ではなく「おくこうなみ」や「おっこうなみ」と読む、その‘音’にも何ともいえない魅力を感じたのを覚えている。なお余呉町にある余呉湖の西側に『川並』という集落があるが、この『奥川並』とは関係無いようである。


2006年9月撮影
正面の橋を渡った所が『田戸』集落跡。車一台しか通れない林道の左手には、高時川の支流の奥川並川が流れ、橋の手前で合流する。

2006年9月撮影
『奥川並』へと続く林道。ご覧のように林道は雑草で覆われてしまう。もちろんガードレールなどは皆無である。


2006年9月撮影
道は最低限の整備しかされていない。このような落石は、この林道ではよく見ることができる。全てが自己責任の走行だ。

2007年4月撮影
この時期は雑草がほとんど無いので、谷の様子がよくわかる。『田戸』を過ぎたあたりからこのような状況がしばらく続き、徐々に谷深くなってゆく。


このあたりは、生活や交通の不便さはもちろんのこと、近畿圏屈指の豪雪地帯という厳しい自然条件。3mもの雪が積もることもめずらしいことではない。雪が積もると村をつなぐ唯一の道は閉ざされ、外部からは遮断されて完全に孤立状態となる。そうなれば当然外に出て仕事をすることなど不可能。通常の出入り口は使えず、雪の中から家を掘り起こす感覚で隣家を探す。そして屋根の破風から中を覗き込むと囲炉裏の火を唯一の暖とした住人の姿が暗がりの中に見える、そんな状態だ。病人が出ても道が閉ざされているので医者に見せることも不可能。どうしてもという場合は、村の男たちが総出で雪の急斜面に人力で踏み固めた道を作り、病人を戸板に乗せて運ぶ。隣村に着く頃には、運び手も皆体力の限界。後は隣村に託し、その次の隣村へ運ぶ。それでも患者が助かればよいが、結局間に合わず命を落とすことも少なくなかったという。雪で孤立した中で死人が出ても運ぶことも埋葬することもできない。どうするかといえば、雪解けまで雪の中に埋めておくしかない。そして春が来て雪が融けだす頃に遺体を掘り起こす。愛する人の死を受け入れるだけでも辛いことなのに、このように遺体を放置せざるを得ない悲しみ。さらにそれを掘り起こした時に、愛する人の変容した姿までも受け入れなければならない残酷な現実。そういえばこれと全く同じような話を、岐阜県と富山県の県境の豪雪の秘境の地『桂』や『加須良』でも聞いたことがある。これらのことはこの地域だけではなく、全国の山深い豪雪地帯では長らくの間、悲しくも普通のことだったのかもしれない。また、当然というか、豪雪地帯ゆえ冬から春先にかけては、常に雪崩の恐怖に怯える日々が続く。ちなみにこの『奥川並』をはじめとした北丹生六ヶ字の『針川』『尾羽梨』『鷲見』『田戸』『小原』に電気が通じたのは、昭和36年のこと。これだけ遅れたのは、決してこの豪雪と無関係ではないだろう。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
これも残念ながら、いつの頃の撮影なのかは不明である。ただ電柱らしきものがいくつか見られるので、それが電柱だとしたら昭和36年以降のものである。またこの写真だけでは、位置関係がいまいちわからない。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
大雪の中で、わずかに家屋が確認できるが、道などは全て雪で覆われてしまう。


また山間部ゆえ田畑の耕地面積も猫の額ほどなので、畑作・稲作を生業とすることは難しい。また人工林が少ないため林業も期待できない。結局生活の糧は炭焼きのみ、という状況だったのである。それでも人々が何百年という長きに渡って集落を形成し維持してこれたのは、それだけ炭の需要があった時代が続いていた、ということなのだろう。だがその製炭業も、戦後の燃料革命のために絶望的な状況となってゆく。 燃料革命前の昭和29年には26戸119人もの規模を誇っていた『奥川並』であったが、炭の需要が無くなり働き場を失った若い者たちは、当然のように職を求めて山を降りることとなる。離村直前の頃には、20歳代、30歳代の男子数は0で、0〜5歳の乳幼児数も0だったという。これからの村を担う働き手たちは全て村を離れていった、ということだ。それでも離村直前にはまだ村は17戸54人の規模を維持している。しかし結局先行きを考えると村の存続が難しくなるのは明らかで、村人はもちろん、余呉町行政もこの現実に強い危機感を持つ。そして昭和44年の雪に閉ざされる前の11月、ついに全員離村という結論に到ることとなる。どのような手立てをとってみても、この地に明るい未来を作ってゆくことができない、という判断だったのだ。この地域の廃村群の中で最初に離村した村、それが最奥の集落『奥川並』だったのである。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
昭和44年11月、雪が降る中に行われた離村式。この日ばかりは、悩まされ続けた雪にも名残惜しさを感じたのかもしれない。これ以降、『奥川並』の冬は無人の冬となった。


2005年11月撮影
『尾羽梨』集落跡。橋を渡った左手には丹生小学校尾羽梨分校があった。今は集落があったことは、石垣や石段などでわずかにわかる程度。

2005年11月撮影
『針川』集落跡。正面に進むと『尾羽梨』、右へ行くと『半明』へと続く。『奥川並』の離村の翌年に、同じく離村の道を選ぶ。


このような厳しい現実による危機感は近隣の村『尾羽梨』『針川』も同様に抱えており、一冬ふた冬越した後にこの二つの集落も、それぞれあとを追うように離村する。『小原』『田戸』『鷲見』『半明』については、別項で述べているように、直接の離村の原因はそれよりずっと後のダム建設によるものである。しかし実際は、『鷲見』などは当時、先に離村した3集落に続いて集団移住の計画が進められていたものの資金不足などにより計画が中断してしまい離村が実現しなかった、という経緯がある。形の上では「離村を視野に入れながらもできない状況にあった」ということだったようだ。


同じような厳しい条件にある集落、そのうちの1つの村から住民が離れ姿を消した。そしてそれに続き隣の村も姿を消すという。今まで困った時は助け合った隣の村に、もう人がいなくなり、頼ることができなくなったという現実。次はいよいよこの村・・、生活はどうする、教育はどうする、ご先祖様には何と言えばいい・・このような状況を目の当たりにして、住民たちにはいろいろな思いが浮かんできたことだろう。葛藤があったことだろう。しかし故郷を離れることの寂しさやつらさを考える余裕も無いほどの厳しい現実が、これら山深き集落にあったのである。


2007年4月撮影
右手の奥川並川に架かった丸太橋は学校へのもの。左手の拓けた所が『奥川並』集落の跡である。


2007年4月撮影
奥川並集落の入り口付近。‘奥川並’という表示ははがれてしまっている。雑草の多い時期は、石垣さえも見えにくいほどである。

2007年4月撮影
集落の中央を流れる川。川幅はわずかのこの川であるが、人々にとってはこの上も無く大事で、生活には欠かせない川だったに違いない。


2007年4月撮影
集落の中心を走るこの道も、夏場は草で覆われ歩けなくなってしまう。奥には一本の桜の木が見える。

2007年4月撮影
細々と咲く桜の木。桜の咲く春のこの時期に訪れたのだが、他に桜は見当たらなかった。


さてそれでは『奥川並』の歴史的な部分に少しふれておこうと思う。この『奥川並』の発生は『針川』『尾羽梨』『鷲見』『田戸』『小原』など他の5集落とは少し違っている。このような興味深い言い伝えがある。「川の上流から箸が流れてきて、初めて川奥の上流に人が住んでいるのを知った」というのである。ここでいえば下流にある『田戸』の集落の人たちが、奥川並川の上流から流れてきたそれらのものを見て『奥川並』の存在を知ったということか。お伽噺のようだがこれが事実だとすると、それまで『奥川並』は下流地域との交流どころか、その存在さえ知られてなかったということになる。長きに渡って人知れぬ‘隠れ里’として成り立っていたということだ。
六ヶ字より少し下流にある丹生神社、そこに残されている1531年(享禄4)の丹生神社紀がある。それには、氏子十ヶ村として「針川」「尾羽梨」「鷲見」「田戸」「小原」五集落の名とともに、「河並」の名がある。余呉湖周辺に「川並」という集落があるが、ここにあがっている「河並」は地域や他の村名との並びからすると余呉湖横の「川並」を指したものではなく、「奥川並」であることは間違いないだろう。奥川並や周辺の坂内村などで聞き取り調査を行っている時に「かわなみむら」ということばをよく聞いた。奥川並のことを、普通にそのように呼んでいるのである。むしろ「おくこうなみ」という呼び方が少なかったのである。これはおそらく後述にあるように、かつて「奥川並」が「口川並」「奥川並」の2つの集落であったことの名残りで、総称のような感じでそのように呼ばれていたのではないだろうか。したがってこの丹生神社紀に記されている「河並」についても奥川並であることの違和感は感じない。ただこの享禄4年の丹生神社紀の記述そのものに信憑性に欠ける部分があるようで、郡誌などではこれを資料として採用していない。この資料の信憑性はともかくとしても、奥川並に関する記述がある現存資料としては、おそらくこれが最古のものではないだろうか。村の起源がいつ頃なのかという細かな年代等は知る由も無いが、少なくとも戦国時代のその頃までは、村の存在が近江国側には知られておらず「隠れ里」的な存在であったことは事実のようである。残念ながら六ヶ字として数えられるようになった時期ははっきりしないが、1602年(慶長7)の検地帳に「奥川並」の名が挙っているところからすると、1500年代のいつ頃かまで、隠れ里としての「奥川並」があったのではないかと思われる。

山奥の集落の発生には木地師などの山の民が漂泊の末に定着したもの、合戦に敗れた落人たちが命からがら逃げ延び起こしたもの、山の幸を求め低地より徐々に奥に入った人々が定住したもの、など様々な場合が考えられるが、『奥川並』は少なくとも近江国側から川を遡ってきた民によって生まれた集落ではなく、山向こうの国からやってきた民によって生まれた集落であるといえそうである。奥川並の八幡神社の祭神に横山大神や広瀬大神の名が見られることから、広瀬や横山といった美濃の国からの民が多く流れてきているのも間違いないところか。

2007年4月撮影
倒壊した家屋の跡と思われる所には、空き瓶、空き缶といったものが多く見られる。

2007年4月撮影
廃材にからんでいるのは電線であろうか。昭和36年に電気が通じてから昭和44年に廃村となるまでの、わずかな期間しか使用されなかったことになる。


2007年4月撮影
集落で使われていたのだろうか、錆びた自転車が石垣に立てかけられたままになっていた。

2007年4月撮影
このような大きな釜は集落内でいくつか見ることができた。夏場は全てが草に覆われ、その姿を隠す。


2007年4月撮影
集落の痕跡として石垣や石段は重要な目印となるが、こうして石垣が崩れてしまっている所もある。

2007年4月撮影
小川に下りて野菜を洗う、という風景が日常的に見られたのであろう。人々が去った後も川の水は絶えることなく流れる。


丹生ダム建設により水没する地域の歴史や民俗について克明に記した「高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書(滋賀県余呉町発行)」の‘婚姻’の項に大変興味深いことが書かれている。


『(奥川並は)かつては美濃国池田郡(現岐阜県揖斐郡)の広瀬、横山からの移住が明らかだが、ここから東の中尾峠を越えれば坂内や川上田へも出られ、現在も山仕事に足をのばすことがあるほどの所という。最初の頃は口川並(下村)、奥川並(奥村)に分住して、享保(1716〜35年)の頃は両方で75戸を数えたが、その後暫時衰えて残った家は皆奥村へと合流した。』
(「高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書」より引用)


ここに述べられている中尾峠は今はその名称は残っていない。滋賀と岐阜の県境にある中尾嶺(神又峰:1050m)の周辺に位置していたと思われるが、正確な位置は結構あいまいで、書かれている書によって微妙に違っている。古い近江国の地図などを見ると『小原』『田戸』〜『奥川並』〜中尾峠〜『川上(美濃国:旧坂内村)』というルートが示されているが、時代の流れから考えると、おそらく奥川並〜川上という美濃側とのつながりが先にあって、後に小原、田戸までが結ばれたということなのだろう。この美濃(川上村)へ通じる中尾峠越えの道は、山仕事やお互いの集落との交流、そして嫁入りなど、かつては盛んに人々や物が行き交った『奥川並』の主要道的な道だったに違いない。『近江国輿地志略』に、美濃路七道の一つとしてこの‘中尾嶺越’が、『奥川並村』〜『河上(川上)村』へと出る道として記されていることからもそれがうかがえる。
ただこの中尾越えの道のルートが本当にはっきりしないのである。角川書店の滋賀県地名大辞典では「伊香郡余呉町の北東部、高時川の支流奥川並川をさかのぼり、リッカ谷沿いに滋賀・岐阜県境の中尾嶺(1050.2m)の南の尾根を越え、揖斐川の支流坂内川上流の神又谷を経て、岐阜県揖斐郡坂内村川上に至る峠道(以上引用)」とあるのだが、坂内村誌に記されている奥川並出身の古老の方の聞き取りでは、奥川並川上流の三叉に分かれる谷の中央の中津谷から中尾嶺(神又峰)の尾根を越えて美濃側の中ツ又谷を結ぶルートであるというように書かれている。これは近江側で三つ又に別れているうちのどの谷沿いの道を通っているのかという点と、中尾嶺(神又峰)の北か南かどちら側を峠としているのかという点、さらには美濃側のルートまで両者は違っている。要するに‘違った道’になってしまっているのだ。どちらが正しいのか判断はつかない。峠の呼び名はともかくとして、もしかしてルートは二つあり、どちらも正しいのかもしれない。今回、地図の作成に当たって土台とさせていただいた『風土資産絵図』では後者のルートとして中尾峠越えの道が記されており、下図の地図でもそのルートを中尾峠の道とさせていただいた。中尾峠は中津峠とも呼ばれていたという。いっそのこと嶺の北のルートを‘中津越’、嶺の南のルートを‘中尾越え’となっているなら分かりよいのだが‥。まあ、いずれにしてもこの中尾峠の道が奥川並と美濃の国を結ぶ重要なルートであったことには変わりは無い。しかし、山向こうの国からの移住によりできた集落にとって大変重要だったこの道も、今はもう地図に示されることもなく消えており、ただ歴史の一部にその名を残すのみというのは何とも寂しい限りだ。


いくつかの資料を参考に、当時のこの地域の図を私なりに整理してみたのが下の図である。甚だ曖昧なものであるので、参考程度にご覧いただければと思う。ちなみに平凡社の『滋賀県の地名』の付録の滋賀県の古地図では、木ノ本町の金居原から美濃へと出る道が中尾峠となっているが、これは明らかに誤りであると思われる。

「近江・美濃の峠道」
以下の文献を参考にして作ってみた。緑の線は古道、茶色の線は現在の道を表す。その他に峠は★印で記してある。
『風土資産絵図』(関西電力株式会社/金居原水力発電所建設準備所:作・富士常葉大学附属風土工学研究所)
『坂内村誌』
『高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書』
『国土地理院2万5千分1地形図/美濃川上、近江川合』


また、『奥川並』集落そのものも口川並と奥川並の二つがあり、やがて奥川並のみに吸収されたということも書かれている。これは元は『近江伊香郡志』に記されていたもののようだが、大変興味深い。しかし一方では同じ「高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書」に、奥川並は以前は『川並』であったが、余呉湖の西にある集落『川並』と紛らわしくなるので『奥川並』と呼ばれるようになった、とも書かれている。‘奥’がついた理由が今ひとつ曖昧なのである。


それではもし奥川並がかつては二つの集落であったとしたら、口川並(下村)と奥川並(上村)の位置関係はどうだったのだろう。現在の奥川並がそのまま当時の‘奥’川並の地であると考えてもいいとしたら、果たして口川並は今の奥川並の上流か下流かどちら側にあったのか。通常ならば高時川に注ぐ奥川並川の下流側を「口」と呼び上流側を「奥」というのであろうが、この集落の場合、近江国より美濃国との交流が主であったところを見ると、美濃国側から見て近いほうが口川並だったとも考えられる。美濃側から見てつけられた名称ではないかということである。しかし山向こうの隣村である岐阜県坂内村の村誌を見ると、古い記録などに奥川並についての記述があるものの、それは主に当時の交流ルートについての記述が中心で、残念ながら二つの奥川並集落についてはふれられてはいない。また‘河並村’や‘奥川並’という名称は出てきても‘口川並’という名称は、坂内村誌を見る限りではあるが古文書には出てこない。となるとやはり口川並は近江側から見た‘口川並’であると普通に考えたらいいのかもしれない。『田戸』から『奥川並』に向かうまでにもう一つの集落があったということである。

「奥川並周辺の空中写真1」
「国土画像情報(カラー空中写真):昭和50年度撮影・5万分の1地形図名‘敦賀’」を元に、管理人e-konが編集・加工したものです。なお神又峰ならびに中尾峠の位置については、管理人の予想であり正確な位置を示したものではありません。


など考えている時に面白いものを見つけた。奥川並集落の古地図である。時代は江戸時代というから、ちょうど奥川並と口川並について考察するにはちょうどよい時期のもの。その地図では奥川並集落はすでに一つしかない。川(奥川並川)沿いに細長く畑地が点在し、その支流周辺、すなわち今の奥川並と思われる所に屋敷が集まっている。注目すべきは、その集落のある地より川下に下がった所の別の支流沿いに不自然に畑地が密集していることである。それもけっこうな数だ。奥川並とそことが距離がどれだけ離れているのかということは残念ながらこの地図ではわからない。しかしこの図を見る限り、なぜこの畑地の密集地に家屋がないのか、人が住んでいないのか、などと疑問を感じるような地形ではある。勝手な推測であるが、この下流の畑地の密集地域こそかつての『口川並』跡だったのではないのだろうか。何もかも人力に頼らなければならない時代、家屋から田畑が近いことにこしたことはない。そう考えると、そこに人家があることはごく自然なこと。どのような理由でそこの住人が奥川並へと居を移したのかはわからないが、奥川並と口川並の位置関係をこの絵図を見ると、そのようにも思ったりする。しかし現代の地図とは違い距離も地形も甚だ大雑把、しかも250年も前のこと。もはや詳細をつかむことはできないのが現状である。「国土画像情報(カラー空中写真):昭和50年度撮影・5万分の1地形図名‘敦賀’」を見ると、やはり集落のあった西側(川下)に奥川並川に流れ込む谷(支流)のようなものが見られるので、おそらくここが古地図の‘不自然な畑地の密集地域’だと思われる。すなわち『口川並』があったと思われる所である。まあ、これについては「幼稚な推測」程度に見ていただければと思う。


前述の中尾峠についても美濃側では‘舞倉之小尾’と別名で呼ばれていたり、古地図では中尾峠の位置が、『川上』から『八草』そして『金居原』へと越えてゆく峠と誤って記されていたりなど、今の時代とは違ってかなり情報が曖昧な部分が多い。1つの資料で物事の判断は危険なのかもしれない。

「奥川並周辺の空中写真2」
「国土画像情報(カラー空中写真):昭和50年度撮影・5万分の1地形図名‘敦賀’」の『奥川並』集落周辺をトリミングしたもの。中央の拓けた所が『奥川並』。


2006年9月撮影
山深い地の谷を流れる奥川並川。いったんは谷深くなるものの、その後は上流に行くにしたがって谷は浅くなる。

2006年9月撮影
路肩が甚だ不安な林道から谷を見下ろす。この季節は多くの植物に邪魔され、谷底を見ることは困難だ。


今でこそ県境がきちんと定められているが、それでも実際に山に線や壁があるわけではない。境界自体が曖昧な時代であればなおさらそんなことおかまいなく、菊の御紋の後ろ盾を持つ木地師たちは良木を求めて山奥深くどんどん入ってゆき、山の稜線や頂から良木のありそうな山を見つけては腰を落ち着け轆轤を回す、そんな生活をしていたのかもしれない。稜線を東に下れば美濃の国、さらに下ると『川上』集落、稜線をつたって北へ行けば『尾羽梨』へ下りる谷、さらに行けば越前の国・・というように、このあたりの山続きで結ばれた地を木地師たちはかけめぐり、定着するようなことがあればそこが集落となっていった、周辺の山深い集落の発生の多くはそんな感じなのではないだろうか。現実に『尾羽梨』の集落を流れる尾羽梨川の上流にある尾羽梨山付近にはその昔に木地師の集落があり、下流の『尾羽梨(現在の集落跡地)』の者たちに見つかって家屋を焼き払われその地を追われたということが、この「高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書(滋賀県余呉町発行)」に書かれている。そしてその追われた木地師集団が『奥川並』へ泣く泣く逃れたという言い伝えも残っている。同じ木地師集落である『奥川並』に助けを求めたということなのか。

2007年4月撮影
『尾羽梨』集落横の林道を上って行くとやがてこのような堰堤が現れる。これが尾羽梨ダムである。

2007年4月撮影
昭和33年と書かれてある。通常の砂防を目的としたダムであることがわかる。


2007年4月撮影
ダムでせき止められた砂が堆積して広い河原を作っている。このあたりのどこかに、木地師集団の集落があったという。

2007年4月撮影
またどこかに墓標も残っているということであるが、残念ながら確認できていない。


この尾羽梨山の木地師集団、県境の山から下って集落を形成したのは『奥川並』と似ているが、その地を追われることになってしまったのは時代背景の違いからなのか、それとも他に何か理由があったからなのか・・。それにしても家屋まで焼き払われたということが、何か気になって仕方が無い。なぜそこまでする必要があったのだろう。ましてや木地師は菊の御紋の後ろ盾があるはずだ。そこには何か大きな理由があったのではないだろうか。いろいろ想像してみるが、所詮何の根拠も無い虚しい想像に過ぎない。 なお木地師発祥の地、旧永源寺町(現東近江市)の『蛭谷』には、その尾羽梨山の木地師の存在を示す供養碑が今なお残っている。この供養碑には「当国尾羽梨山」と刻まれており、1836年に蛭谷の筒井八幡宮が焼失した際、その再建への寄附勧進(1841年)と落慶式典挙行(1846年)のために尾羽梨山の木地師が参詣し、先祖菩提を願って建立したものと見られている。道端にさりげなく残るその碑には、160年を経た今でも‘尾羽梨山’の文字が残り、尾羽梨川上流の木地師集団の存在を物語るのである。今更ながら物言わぬ歴史の証人の重要さを感じるばかりだ。
何百年も前の昔に尾羽梨川上流の木地師集落は姿を消したが、幸いにも『奥川並』は集落として存続し続けることができた。しかしその『奥川並』も何百年の後の昭和という時代になって集落が消滅するという運命をたどることになる。そしてそのすぐ後に、尾羽梨山の木地師集落を追いやった『尾羽梨』も同様の運命をたどることになり、ともに歴史から姿を消してゆくのである。


2007年1月撮影
木地師発祥の地の道路脇に今も残る供養碑。


2007年1月撮影
かなり風化が進んでおり、よく見ないと文字が刻まれていることはわかりにくい。

2007年1月撮影
「当国尾羽梨山」と刻まれているのが何とか確認できる。歴史を物語る貴重な供養碑だ。


そういえば歴史に関して興味深い話が残されている。戦国の武将、島左近が1600年の関が原の戦いで敗れた時にこの地に落ちのびたというのである。私は歴史は詳しくないのでよくわからないが、この島左近という人物、関が原の戦いを描いた古い映画(題名はそのものズバリ『関が原の合戦』だったような?)で、あの三船敏郎が演じているとういから大変な人物なのだろう。「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」という有名なことばからも、そのことがよくわかる。徳川家康率いる東軍に敗れた西軍の雄、石田三成の知将として関が原の合戦で戦死したという記録が、岐阜県の関が原にある資料館にはあった。実はそうではなく、もし本当にこの地に落ちのびていたとしたら、それはなかなかのロマンである。この時代、敗軍の名のある武将の首は敵軍はもちろんのこと落ち武者狩りなどの格好の標的となる。しかし島左近は首はもちろんのこと、遺体が確認されたという記録も残っていない。
奥川並には「島左近は合戦後ここにかくまわれていたが、徳川の世になり奥川並が藩の御用炭生産地として彦根藩領になったことで、村人は藩の詮議を恐れるようになり左近を殺してしまった。そしてこのことが藩に知られると村中皆殺しになるため、誰も左近のことを口にする者はおらず、そのまま闇に葬られてしまった。しかし実は殺したということにして、村人たちは左近をこっそりと美濃方面へ逃がした、のだと‥」という言い伝えが残っている。そして実際に奥川並には‘殿隠しの洞’や‘嶋屋敷’と呼ばれる場所があったり、島左近より‘島(嶋)’という姓の一部を与えられたという‘○嶋’という姓が残っていたりしている。これらのことを考えると、決してあり得ない話ではないのかもしれない。


2007年4月撮影
集落の中央を流れる小川。石垣に、かつての集落の面影が残る。川は人々の生活を支える。きっとこの川に多くの人が集まったことだろう。

2007年4月撮影
その姿を覆い隠さんばかりに、ツタが桜の木にからみついている。桜の大きさからすると廃村後に自生したものかもしれない。


また島左近の末裔と思われる方が現在、静岡県天竜市におられるという。その天竜市の言い伝えによると、「左近は奥川並を逃れて美濃に入り、奥三河を経て秋葉街道、そして天竜川を下って今の天竜市にたどり着き、造り酒屋を営みその生涯を終えた」とある。そして天竜にたどり着いた時には妻子もいた、ということだ。左近の生まれは1540年とされており、合戦のときは60歳を超えていた。昭和48年に『奥川並』の地元余呉町の鏡岡中学校の郷土クラブによってまとめられた「消えゆく里の記録」の中で、奥川並が彦根藩の領地となったのは寛永10年と記されている。また「角川日本地名大辞典25滋賀県」では、「寛永11年には、村高15石余(寛永高帳)で、旗本土井氏の知行地であったが、元禄14年には、村高11石余(元禄郷帳)で、彦根藩領となった。」とある。寛永10年というと1633年、元禄14年というと1701年だ。彦根藩領になったのが年代の古い1633年(寛永10)だとしても、左近が奥川並を出たのは90歳前後ということになってしまう。その年齢でこの地を離れ天竜までたどり着き、造り酒屋を新たに始めたとはどうも考えにくい。寛永10年に奥川並を離れたとすると、左近は奥川並で30年も生活していたことになる。そこで妻子を持ったか妻子を呼び寄せたかはわからないが、左近というより奥川並にいた‘左近一族’が奥川並を離れ天竜までたどり着き造り酒屋を始めた、という方が私などにはしっくりくるような気がするが、今となってはわかるはずもないこと。しかし両地方で言い伝えが残されており、それらがある程度つながることは、この言い伝えが単なる言い伝えでないような気もする。しかし、いかんせん隠密に進められたこと、古文書などの記録が残っているはずもなく全てが言い伝えの世界。もし左近が本当に奥川並の地より天竜市へと行き着いたとするなら、先に述べた国境にある中尾峠から美濃の国「川上」へと入ったと考えられるが、そこから天竜にいたるまでの道中に何らかの証拠となる記録が残っていたとしたら、これはもう史実を覆す大発見になる。などなど思いを巡らすのも歴史のロマンなのかもしれない。


2007年4月撮影
これは集落の中央を流れる川。今も落ちる寸前の橋が一本残っている。ここは多くの人が行き来した所、以前はもっと多くの橋が架かっていたに違いない。


1993年9月撮影
初めて訪れた時には人の温もりとともに犬の姿も見えた。おそらく山仕事のお供に来たのだろう。開け放たれた家屋にも、人の気配が十分に感じられたものだ。


1993年9月撮影
この時、残っている家屋の多くにこのような支えが見られた。雪に閉ざされる地域で、廃村後20年以上も倒壊を免れるのは並大抵のことではない。

1993年9月撮影
『奥川並』の集落をもう少し奥に行くと、林道が二股に分かれている。しかしこのようにチェーンがかかっており、その先へ行くことはできなかった。


私はこの『奥川並』に、1992年から93年にかけて何度か訪れている。廃村から20数年たった時である。田戸からの断崖絶壁の悪路を4km程進むと、やがてきれいに手入れされた大きな墓碑が見えてくる。いつ訪れた時もきれいな花が供えられており、ここを去った人たちのご先祖様を大事にされている気持ちが伝わり、心打たれたものだ。故郷の地を離れてもその思いは決して離れることはない、そういう思いを強く感じた。『尾羽梨』『針川』と違い、比較的近くに集団移住という形がとれたので、そのようにできるというのもあるのだろうが、それでもこのような不便な地に、花を枯らすことなく通い続けるというのは並大抵のことではない。先祖を大事にするという気持ちを、現代人とは比較にならないほど昔の人たちは持っていたのだろう。先祖に感謝する気持ちや高齢者を敬うという気持ちが持てなくなった現代人の姿と、我が子が親を、親が我が子を平気で殺してしまうような事件が珍しくなくなってしまったこの社会との関係、決して無関係ではないという気がする。


1993年9月撮影
初めて『奥川並』を訪れた時は、まだこのように家屋の姿を見ることができた。

2007年4月撮影
14年後に、ほぼ同じアングルで撮られた写真。もう家屋は見られない。14年の月日の重さがわかる。


1993年9月撮影
建物そのものが大きくゆがんでいる。また残った家屋も多くの雑草に覆われ、来る者を拒む。足元に細心の注意をはらって進んだのを覚えている。

2006年9月撮影
今残るのは石垣だけとなっているが、それさえもこの時期には見ることはできなくなってしまう。


1993年9月撮影
歴史の威厳を感じる大きな立派な家屋だ。雪にそう強くもなさそうなこの家屋が、廃村後20数年も過ぎたこの時期まで残っていたのは、本当に奇跡に近いのではないだろうか。

2006年9月撮影
今はこのようなものが作られている。何かの観測装置のように思えるが、詳細はわからない。


訪れた当時、残されたいくつかの家屋はかなり荒れてはいるものの、まだ建物としての形は残されており、中には元の住民の方がここにお墓参りに訪れた時や、山仕事で訪れた際に休憩場所として使用されているように思われるものもあった。開け放された扉から中をのぞいてみると、いろりにはこげた薪が残されていたり、醤油の瓶が残されていたりしていた。ついさっきまで人がいた、という感じであった。おそらく奥川並出身の方が、山仕事にでも来られていたのかもしれない。また、家屋やその周りは草に覆われているが屋根や壁が倒れたり崩れたりしないよう支えがされていたり、わずかな斜面を利用したのであろう畑の跡地らしきものが残されていたりで、まだ人のにおいや生活のにおいを十分に感じることもできた。また奥川並川に架けられた丸太橋の向こう側には崩れかけた丹生小学校奥川並分校の姿を見ることもできた。川向こうのその地は、とてもじゃないが学校があるような場所とは思えないような広さ。廃村前は日が当たり明るかったこの場所も、今は杉の植林で晴れた日の昼間でも薄暗くうっそうとしている。それも廃村後20数年の歳月がこのように変えてしまったものだったのだろう。この丸太橋の下は川面まで数メートル。渡る決心をするには余りにも不安な苔むした丸太。結局迷いに迷った末、渡ることはあきらめたのを覚えている。


2007年4月撮影
川の右手の台地のような所に丹生小学校奥川並分校はあった。夏場は木々に覆われ何も見えなくなるが、この時期は校舎跡のコンクリート基礎のようなものが見える。


1993年9月撮影
初めての訪問の時は、木々の向こうにかすかに校舎を見ることができた。なぜこの時、この丸太橋を渡らなかったのか、後悔してならない。

2007年4月撮影
それから14年後、丸太橋はいまだ健在だが、校舎は倒壊し、朽ち果てて自然にかえっている。


1993年9月撮影
校舎の形がかすかにわかる。下の写真と比べると、それが校舎であったことがよくわかる。1階部の損傷がかなり激しいようだ。

2006年9月撮影
そして今は夏場になると、学校があったことなど信じられないくらい木々で覆われてしまう。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
在りし日の分校の姿。小さな可愛らしい校舎だ。小学校の1〜4年生まではここで学び、その後は『小原』にある小原分校で学ぶ。


それからもう10年以上も訪れることは無かった、というかダム工事の関係で入ることができない期間が長かった。その間、主を失った老家屋はどうなっているのだろう、墓碑はどうなっているのだろう、学校は崩れ去ってしまったのだろうか‥などなどいろいろ思ったりしたものだ。何度も訪れては、置かれている車止めを恨めしく思い引き返した。そしてようやく訪れた時、これらの老家屋は何度も厳しい冬を越すことができるはずもなく、墓碑を除き全ての建物は姿を消してしまっていた。我が物顔にふるまう雑草が消える季節にだけ、わずかに建物の残骸や基礎が姿を現す。今、子どもたちの声で賑わっていた頃の小学校の写真と、廃墟となって崩れつつある校舎の写真、そして現在の学校跡の写真を見ると、そのあまりにものコントラストの違いに何とも言えない切なさがこみ上げてくる。もう間もなく村が無くなり、学校も消える。その最後の日の登校。教室で一人一人がチョークを手にし、それぞれの思いを黒板に綴る。もうその黒板に書かれた文字が消されることはなく、何年もの年月の後に校舎とともに崩れるのを待つだけ。子どもたちが、村人たちが、先生が校舎を後にし、この地を去ってゆく。それらの映像が勝手にイメージとして浮かんでくる。不便な場所から明るい日の当たる場所へ、希望に満ちて人々は村を去ったのか、先生は、生徒はどういう思いで最後の授業を終えたのか、思いは尽きない。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
学校の玄関前で記念写真。笑顔が本当に素晴らしい。今この子たちはどうしているのだろうか‥。

「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
教室内の風景。金属製の机を見るとけっこう新しく感じる。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
子どもたちと先生。大きな子どもは中学生くらいなのだろうか。小さな村の小さな学校。今の時代では考えられなくなってしまっている。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
どういう思いで書かれたのだろうか、黒板の言葉。廃校となってから40年が過ぎようとしている。


今なお迷走する丹生ダム建設。水を貯めるダムとするのか、それとも穴あきダムとするのか。規模縮小というだけで、具体的な見通しは立たない状態だ。この先計画がどのように変わっていくのかわからないが、いずれにしても『奥川並』という歴史ある集落が歴史の幕を閉じ、自然にかえり消えてしまったということだけは間違いない事実。ここに残る墓碑、きれいに手入れされているこの墓碑、これらを支える人々の心は変わることがなくても、流れゆく時間は確実に状況を変えていってしまうということを感じるのである。


2007年4月撮影
家屋は倒壊し、とっくに自然にかえってしまっている。その中で自然にかえれないでいる小さなテレビが、今も残る。

2007年4月撮影
弁当箱だろうか。植物に隠されないこの時期は、多くのものを見ることができる。


2007年4月撮影
下界?ではとっくに咲いている水仙の花だが、今この地ではまだ蕾。これから美しい花を咲かせることだろう。

2007年4月撮影
人がいなくなったこの地の38回目の春。ダム完成後も沈まぬこの地は、騒々しい人間とは関係なく植物は自由であり続けるのだろうか。


廃屋の中の風景
腐り始めた床板や壁板 散乱した生活用品
崩れ落ちた天井 屋根瓦
時には侵入者の残したゴミまでも・・
ここ奥川並では’いろり’が見えた
かつては命の炎として、絶やされることのなかった火種
だがその火種も点されることなく
真新しいこげ跡のある薪(廃材)が残るだけ
奥には醤油のペットボトルも見える
一見生活のにおいのするはずのものなのに・・何か違う
釣り合うはずなのに、何とも不釣合いな風景・・
それでも老いた家屋は、何事もないように受け入れてくれていた



【参考資料】
●高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書
(編集:余呉町教育委員会、建設省高時川ダム工事事務所)
●角川日本地名大辞典25滋賀県(発行:角川書店)
●余呉町誌(発行者:余呉町誌編さん委員会)
●記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)
●消えゆく里の記録(余呉町立鏡岡中学校郷土クラブ)
●季刊誌「湖国と文化」1991年発行 春号・夏
(発行:財)滋賀県文化体育振興事業団)
●風土資産絵図
(関西電力株式会社/金居原水力発電所建設準備所:作・富士常葉大学附属風土工学研究所)
●坂内村誌(編集:坂内村誌編集委員会、発行:坂内村)
●孤村のともし火(著者:海野金一郎/桂書房)
●国土地理院2万5千分1地形図「美濃川上」「近江川合」
●国土画像情報(カラー空中写真)


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