男鬼
━滋賀県彦根市━ |
2004年6月撮影 |
2004年6月撮影 |
この地を初めて訪れたのは1992年頃である。山間の迷路のような細い道が少しひらけたところ、そこの道沿いに並ぶ美しい老家屋・・・隣の『明幸(妙幸)』『武奈』を訪れた後にこの地に立ち寄ったものだから、あまりにもの違ったその雰囲気は、とてもじゃないが廃村とは思えなかった。当時は明らかに廃村という雰囲気の集落しか写真に残そうなどの意識がなかったので、『男鬼』の当時の様子が全く記録されていない。廃村というイメージからかけ離れていたこの集落は、当時の私にとっては普通の山村集落にしか見えず、「またいつでも写真に撮りに来たらいいかな」程度にしか考えていなかった。今考えると、記録に残しておかなかったことが残念でならない。結局、『男鬼』の写真を記録し始めたのはこのサイトを立ち上げようと考えた昨年(2004年)からである。ただ、当時の印象は今でも強く頭の中に残っている。細い小川に沿って走る舗装された狭路、両側が山になっている為に道と山の間のわずかなスペースにしか家屋は並んでいない。細い小川の石段、流れる美しい水とそこに泳ぐ小魚。そして山の緑に美しくマッチする茅葺(トタンで覆われていたが)家屋。木々に覆われ薄暗い極細路を走っていてこの地に出たときは何かホッとしたものである。それから10年以上もたってしまった。 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
昨年(2004年)に続いて、初夏の『男鬼』の写真を撮ろうと5月の下旬に訪れた時のこと。芹谷の『落合』からの極狭路を車で入り廃村『男鬼』に向かった。初めて訪れた時とは逆のルートである。すれ違い不可能の一本道を進むとやがて緑の向こうに、鈴鹿山脈の中腹、標高420mに位置するこの集落の家屋が見えてきた。このあたりの一本道は滝谷武奈林道に合流するまで細い上り坂がつづく。私は道沿いに建ち並ぶ『男鬼』集落の一番下にある「少年山の家」のログハウスの下の空き地に車を停めた。そこから坂を上りながら集落の風景を順に撮影し、集落の端まで来るとまた同じ道を逆方向に下って違ったアングルから写真を撮る、そういうながれを考えた。空き地の奥には炭焼きの窯がある。おそらく以前ここで行われていた、林間学校などで使用されていたものだろう。私はまず空き地にある「少年山の家20周年記念」の碑とその周囲に咲いている黄色い小さな花を写真におさめた。よく見ると黄色の花に蜂がとまっている。蜜を採っているのだろうか、何か一生懸命動いている。花びらにはかじられたあとがある。蜂って花びらをかじるのかなぁ・・??なんてことを考えながら集落に向かう。方向で言えば芹谷の『落合』方面から『鳥居本』方面に道を進んでいることになる。 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
まず、家屋の石垣に見事に咲いている白いつつじが目に入った。そして庭には緑のもみじの木。そこに住まなくなっても山や家屋の手入れのために住人の方が帰ってこられているようで、庭はとてもきれいにされている。少し進むと違う家屋が見える。そういえばこの『男鬼』の集落は、これまでの廃村と違いきれいに手入れされた家屋が多く残っている。それは以前、彦根市の小学校が、『男鬼』集落の無住となった家屋を借り受けて少年山の家(林間学校)を、昭和48年から30年近くにもわたって開校していたからである。もちろん大部分が茅葺屋根にトタンをかぶせたものだから、家自体の古さは相当なものである。だからきれいに手入れされていたとしても、もうあちこちに傷みは来ているし、屋根などは、傾かないよう地面から支えがつけられている状態だ。ただその間、家屋に人の手が入り、手入れもされていたため、この地域に多く存在している他の廃村の家屋と比べると圧倒的に傷みが少なくなっている。残念ながらこの少年山の家は、利用者減少の為に平成11年を持って終了してしまっているのだが、その間多くの子どもたちが自然の中で貴重な体験をしたことだろう。 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
幅の狭い小川沿いの上り坂を歩き数枚の写真を撮ったところで、何か人の気配がする。見ると少し先の家屋に人がいるようだ。庭で畑仕事をされているようである。そういえば先日、芹谷のがけ崩れのためにこの道を迂回路としてここを通った時も、家屋のほうから煙が立ち昇っているのが見えた。住人の方はけっこう帰ってきておられるようである。 トタンで覆われた茅葺家屋の前を通るとおばあちゃんが玄関前の石段に腰を下ろして休憩されている。畑仕事が一段楽したのだろうか。挨拶をすると気さくに声をかけてくれた。少しおばあちゃんとお話をしていると、奥からご主人も出てこられた。そこでしばらく『男鬼』に関するいろいろなお話をうかがう。ご主人は86歳となった今でも、季節のいい時は毎日バイクで彦根から通ってこられるそうだ。このお二人、とても親切な方たちで、見ず知らずの私の質問に丁寧に答えてくださるだけでなく、お茶菓子を出してくれたり、話が盛り上がっていく中で話題となったご主人のシベリア抑留の体験記を綴った大切な自費出版本をくださったりなど、もうひたすら申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいになってしまった。山間のおだやかな日差しの中で鳥のさえずりを聴きながら古い家屋の前で過したこのひと時、時間にしたら1時間あまりのわずかな時間であったが、私にとっては日頃の煩わしいことや疲れなど全て癒されてしまう至極の初夏のひと時であった。この先もきっと忘れることはないだろう。その時の内容については近々新設予定の新しいコーナー「e−konの自由帳」で詳しく紹介させていただきたいと思う。 |
2005年5月撮影 |
2004年6月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2004年6月撮影 |
この『男鬼』の集落を少し紹介しておこう。この地区の歴史は大変古いようで、和銅5年(712年)に建立された霊仙山7ヶ寺の中に男鬼寺(だんきじ)の名があるそうだ。しかしそれが現在の『男鬼』と場所を同じくするかどうかは定かではない。ちなみにこの7ヶ寺の中には『仏生寺』や『荘厳寺』といった『男鬼』近辺の集落の名も見られるが、どちらも寺は現存せず地名が残るのみである。また天正15年(1588年)に中納言秀次(豊臣秀次)が近江一円氏に命じ作らせた絵地図には武奈、男鬼の村名が見られるという。 明治22年から昭和27年までは鳥居本村に属し、その後彦根市に編入されて現在の男鬼町となる。この他、気になるところとして高取城(男鬼城)の存在がある。中世阿原豊後守のこの城、かなり大きな山城だったらしいが、現在『男鬼』の奥の高取山頂付近にわずかな石垣などが残るだけで、まだその多くが謎のままであるらしい。なぜこんな所にお城が?と考えてしまうが、何かこの地、その昔は今とは全く違う姿を見せてくれていたようで非常にロマンを感じてしまうのである。いずれにしても『男鬼』の歴史が古いことは間違いなさそうだ。 戸数や人口の変化、村の歴史などについては、多賀町のように町史に詳しく書かれているといいのだが、『男鬼』が存在する彦根市の市史には私が調べた限り記されてはいない。そこで「鳥居本村の姿(鳥居本小学校、鳥居本公民館編集人兼発行:昭和25年)」「ふるさと鳥居本(ふるさと鳥居本編集委員発行:昭和54年)」「鳥居本歴史と文化のものがたり(彦根市合併50周年記念事業実行委員会編集発行:平成15年)」などの文献を参考に調べてみた。 それによると人口などの記録はほとんど残っておらず、地元の方の話では明治時代には50戸くらいの人家があったという。いつの時代からかはわからないが、かつては村に二つの寺が存在していたものの、戸数が減ってきたので明治の初年に「無量寺」というお寺を福井の方に売却したそうである。ということはそれ以前はもっと多くの家屋があったと考えられる。残っているもう一つのお寺は「誓玄寺」といい、道沿いに今も建物は健在である。ややこしい話であるが、現在の誓玄寺の建っている所はかつて無量寺があったそうだ。ただこの誓玄寺、つい最近になって廃寺の手続きをされたそうで、もうこの『男鬼』には寺は存在しないことになってしまったのである。このことは集落の今後に、どう影響するのだろう・・。 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
2004年6月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
人口の推移の記録も調べた範囲内では十分には残ってはいなかった。数字として残っているのは明治13年の戸数が27戸で人口は140人であったこと、それと昭和22年:78人、昭和23年:77人、昭和24年:76人という数字、常住人口が昭和24年の男子43人、女子49人の計92人という数字である。同じく昭和24年の世帯数は16戸である。ちなみにお隣の『武奈』は世帯数30で常住人口は163人となっている。季刊誌「湖国と文化:(財)滋賀県文化体育振興事業団発行」の第55号には、昭和46年に廃村となったという記載があるが、一方では昭和54年発行の「角川日本地名大辞典」には世帯数6、人口9人で廃村直前という記載がある。他の項でも述べたが、廃村の定義はあいまいである。ここでは暖かくなると、常時ではないものの住民の方が戻ってこられ、実際に家屋で生活されている様子が見られるという点から、勝手な判断ながら「廃村」ではなく「冬季無住集落」と表現させていただくことにした。 主な産業は林業で、300町歩もの広大な山林を持ち、製炭で生計をたてていた。この広い山林には豊富な木を求めて他の村からも多くの杣人が山に入ってきていたという。春から秋には男が炭焼きをし、女が炭俵を2俵背負って細い山道を延々と歩いて鳥居本経由で彦根へ売りに行き、そして売ったお金で生活物資を購入し戻ってくるという生活。昭和10年にリヤカーが通れる道が開通してからは女一人で10俵もの炭を彦根まで売りに出たそうだ。リヤカーがあるとはいえ、女性にとって大変な重労働であったことは間違いない。それでも需要があるということは、その頃はまだ炭焼きでもじゅうぶん生活ができるということだった。しかし時代が変わり、昭和30年代の燃料革命によって炭の需要が急速に減ることで、この生活は否応なしに終わりを告げることになってしまう。もう製炭で生活できなくなってしまったのだ。 |
2004年6月撮影 |
2004年6月撮影 |
そういえば、前出のおばあちゃんとそのご主人からこんなお話をうかがった。炭焼きが盛んだった頃のことである。山から炭の原材となる木が次からつぎと伐採されて、ついに山はハゲ山となってしまった。そして大雨が降る。豊富な木々があれば雨水は生い茂った葉っぱに、幹に、大地をかためる根っこに貯められ、やがてゆっくりと地面にしみこむ。しかし木々をなくしたハゲ山は降り注いだ雨水を受け止めることができず、ついには鉄砲水となって村を襲うこととなった。この『男鬼』の集落も、道に沿って流れる小川から水が溢れ、さらに山からの水は次からつぎと集落に流れ、多くの家屋が浸水したそうだ。あの斜面に建ち並ぶ家屋が床下まで水につかるなど、とてもじゃないが考えられない。山奥の小さな集落、水量がどんどん増し、家屋に迫ってくる・・さぞかし怖ろしい時間を過ごされたことだろう。自然の力を感じさせられる。 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
この他『男鬼』では、製炭の他にも養蚕や牛蒡(ごぼう)生産なども行なわれていたようである。養蚕はかなりの収益があったようであるが、炭と同様、需要の減少ならびに労働者不足等で、やはり廃業に追い込まれてしまう。牛蒡は「おおり牛蒡」として彦根に出荷されていたそうで、特産名物となっていた。今『男鬼』で見ることができるのは残された老家屋と自然にかえりつつある多くの地、小川そして山である。しかしこの地も、かつては多くの美しい畑の風景を見せてくれ、そこから男鬼の人たちに育てられた多くの牛蒡が出荷されていたことだろう。今はただ古老の人たちからその当時の風景を話に聞き、現実の風景とだぶらせて想像するしかないのである。 |
2004年6月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
さて学校についても少しふれておこう。学校の細かな変遷については『明幸・武奈』の項でふれたいと思うが、男鬼の子どもたちは、小学校は隣村にある武奈分校で学校生活を送り、中学校は山を下りて遠く鳥居本中学校まで通っていた。冬になり雪深くなると通学が危険で困難になる為、寄宿舎生活を送ったそうである。中学校までは何と10km近くにもなり、さらに山道であることを考えると、この距離を毎日通うのは、子どもはもちろん大人でも大変な重労働である。特に帰りは上り道・・疲れた体で帰るのはさぞかし大変だったことだろう。しかしこの生活の中で育った子どもたちの体力、精神力は、便利な都会で育った子どもたちとは比較にならないようで、前出の私がお話をうかがったご主人も、「男鬼育ちは・・・」と何度も強調されていた。通学だけではなく幼い頃からの山仕事や手伝いなど、自然に身についた体力やたくましさは誰にも負けない。実際シベリアに抑留された時もそのことが大いに役立ち、男鬼育ちの強さ、たくましさを改めて強く感じることとなったそうである。そのはきはきとした語りの中に『男鬼』で生まれ育ったことへの誇りを感じたものだ。 |
2004年6月撮影 |
2004年6月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
この『男鬼』は、廃村という表現はやはり合わないような気がする。一時期、人が住まなくなり林間学校の施設として利用されていたのは事実であるが、それが廃止された後は住民の方が冬場以外は常時ではないが戻ってこられ、山仕事や畑仕事、そして家屋や庭の手入れなどされている。残されている大部分の集落がそうである。だからそういう時期に訪れると生活のにおいがする。人の姿を見る。煙突から立ち上る煙も見える。やはり現状では冬季無住集落と考えるべきだろうと思う。 しかし、ここの人たちが故郷の地を離れ、新たな地で新たな生活を始め、それが今後も続いていくことは間違いない。そして後を継ぐ若い者たちが、この教育の場の無い不便な山の中で新たな生活を始めることなど到底考えられない。もう『男鬼』が発展することはないのである。住み慣れた、そして先祖代々続いてきたこの厳しいけれど美しい地『男鬼』は今後どのような姿になっていくのだろうか。「この下にも家があったんや。今はもうないけどな。」「ここを出て行く時のこと?まわりの家から、どんどん人がいなくなってな。そら寂しかったよ。次は自分らが出ていかなあかん。そうなるのも仕方ないと思ったよ。」と話をされる古老のことば、そしてやはりどこかに寂しさを感じるその表情、それらが私の頭の中でいつまでも弱い光で輝き、美しさを放つ。そして残像を残すのである。 |
2005年5月撮影 |
2005年5月撮影 |
屋根の下半分が緑に苔むした茅葺の屋根 |
【参考資料】 |
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