土倉鉱山跡

土倉鉱山跡
(滋賀県伊香郡木之本町)

昭和40年8月閉山


多くの笑顔、それはにぎやかな笑い声
多くの力、それは厳しさにたち向かう力強い声
多くの涙、それは命を預けあった同士を、
そして愛する家族を
失った究極の悲しみ・・叫び
苦楽を共に、そして命を共にした同士なのに
その絆も時の流れと共に断ち切られてしまう
誰を恨むこともできないゆえ
出てくるのは・・・ただ涙のみ





1993年8月撮影
八草峠にある観光案内図。大きな立派な看板である。
トンネルが開通して以来、廃道化しつつある峠への旧道、もう人の目に触れる機会はほとんどなく、その役目を終えつつあるようだ。

1992年8月撮影
八草峠の風景。記念碑とお地蔵様が峠を見守っている。
この峠道が開かれたのは昭和25年のことというから、けっこう新しい。古くから美濃と近江の国を結んでいた「八草越え」の峠道は、現在の八草峠より北へ約1.5kmのところにあったそうだ。



1992年8月撮影
八草峠から滋賀県側を見ると、このような美しい山並みを見ることができる。重なる山々のグラデーションが美しい。
昔の旅人たちも、八草越えの際には、このような風景を見て旅の深さを感じ、疲れを癒したのだろうか・・。


ここを初めて訪れたのは1992年の夏、滋賀県側からR303を通って八草峠を目指していた時である。訪れたというか、たまたま出会ったというべきなのだろう。当時はナビゲーションなど便利なものは無く、細く曲がりくねった山間の狭路を「あとどれくらいで峠につくのだろう」などと不安な気持ちで運転している時に、たまたまその看板を見つけたのだった。細い道の待避所、よく見ると待避所ではなく土倉鉱山跡へ向かう脇道への入り口だったわけだが、そこの老木にさりげなくぶら下がっていたのが『土倉鉱山跡』の案内看板であった。


1993年8月撮影
古木に吊るされた土倉鉱山の看板。今はもうなくなってしまったこの看板。なんとも物悲しい感じだ・・。

1993年8月撮影
看板から少し入ったところだ。このあたりを昔は出口土倉と呼んでいたらしい。向かって右側に選鉱場跡がある。


鉱山といえば、岐阜や長野の山奥、九州や北海道の炭鉱などをイメージしていただけに、滋賀県にそういうものがあったということを意外に感じた。その時はさほど興味もなく、峠までのちょっとした道草のつもりで立ち寄ってみたのだが、看板からわき道に入ると程なく現れたその巨大な古代遺跡のようなたたずまいの『土倉鉱山跡』に、私は一目でひきつけられてしまったのを今でも覚えている。その大きなコンクリートの塊で構成された柱、骨組み、そして長い年月を経てそこにしみこんだ鉄さびの色、それは荒れ放題の草木に負けることなく、静寂の中で堂々と私を見おろしていた。これまでに見たことの無い風景だった。勝手気ままに道を進んでいると、様々なものに出会う。この時の出会いも私にとってはとても印象深いものであった。

この建物の跡は、鉱山の何かの工場の跡なのだろうということはその姿からイメージできたが、それが鉱石をより分ける為の選鉱場だったということがわかったのは、後に私のバイブルである『湖国と文化:55〜56号』ならびに、びわこ放送の『地図から消えた村』を見てからであった。


1992年8月撮影
これが選鉱場跡だ。山の斜面にへばりつくようにして残るコンクリートの塊。この風景を何の予備知識も無く見たら、古代遺跡か何かを連想してしまいそうだ。


1992年8月撮影
長年にわたって雨風、雪、光、風・・にさらされ続けてきた選鉱場。コンクリートの表面は鉄錆びや苔などに侵され、何とも言えぬ良い色を出している。


『湖国と文化:1991年夏号(56号)』の特集「地図から消えた村2」の中で、この土倉鉱山のことが詳しく書かれている。この土倉鉱山で生まれ育ち、土倉を生まれ故郷とされる白川雅一氏の執筆によるものである。

それによると、この土倉鉱山は明治40年に銅鉱脈が発見され、同43年に田中鉱業(株)という会社の経営で銅が採掘されたのを始まりとしている。その後、昭和9年に日窒鉱業が鉱山を買収し機械を取り入れ近代化された。その時の採掘場所は、今の鉱山跡より2kmほど奥(北)に位置しており、住民たちもそこに建てられた丸太の柱で杉板一枚の壁という、隣の物音まるぎこえの簡易な長屋で生活をしていたという。しかし昭和12年に日支戦争が始まって地下資源の増産が必要になったことや、雪による度重なる災害を防ぐ為などから、山を下った現在の鉱山跡地となる所(R303の土倉出口附近)に新たに坑道が開かれたのである。そして、それとともに住居もそちらの方へ移されていった。豪雪地帯であるこのあたりの雪の被害は大変ひどく、昭和に入ってからも昭和9年(4名)、同11年(6名)、同14年(10名)、同15年(10名)と多数の犠牲者を出しているが、鉱山の中心が今の場所に移されてからは、雪の恐怖からもかなり解放されたようである。

その後、全ての設備をそちらに移して本格的に操業されるようになり、月産100トンを処理できる選鉱場が昭和17年に建設された。そして昭和32年頃には200トン処理に拡張され順調に発展していくのだが、昭和38年の銅鉱石の貿易自由化による海外からの安い鉱石の流入、それに加えて期待をこめて先に開発されていた鉱床の思わぬ低品質、などから採算が合わなくなり、ついには昭和40年に閉山という運命をたどる。最盛時には銅鉱年産1万8000トン、従業員やその家族を含めると1500人もの人たちでにぎわったという土倉鉱山のこの地も、60年間の歴史に終止符を打ち無人の地となるのである。


2003年9月撮影
山の斜面に沿って続くコンクリートの塊。この選鉱場の在りし日の姿は、『湖国と文化:第56号』に掲載されている。

2003年9月撮影
この日は、若者のグループが写真撮影に来ていた。撮影だけではなく、山の斜面上部までのぼってはしゃいでいた。写真に人が入らないようにするのが大変だった。


こうしてみるとこの山奥の地の生活はつらいことばかりの様に思えるが、実際は週一回の映画上映があったり、新年会、祭り、慰安旅行、運動会など文化的な生活が営まれていたようだ。テレビの無いこの時代を考えると先進的な生活といえるのではないだろうか・・。一方、その当時はまだまだ労働者の健康への配慮に関しては不十分な時代で、32人もの「けい肺病」による犠牲者を出している。この数字、亡くなった方が32人というだけで、実際この病気で苦しんでおられる方は、その何倍もの数字になるのだろう。

『湖国と文化』の「地図から消えた村2」のこの項には、この他にも、当時の土倉の様々な様子が書かれている。実際にここに暮らしていた方の執筆によるものだけに、本当に心打たれるものがある。機会があれば、是非ご一読されることをおすすめする。


2003年9月撮影
斜面の中央あたりである。この丸い形のものは何なのだろう・・。


2003年9月撮影
上の写真のアップである。何かタンクのようなものなのだろうか・・・


そういえば、この『湖国と文化』ならびにびわこ放送の『地図から消えた村』のどちらにも、この白川雅一氏撮影の写真が使われている。何枚かの写真の中でも運動会の仮装行列の写真は私の中で強く印象に残り、せつなさとともに感動を感じた。「今ここに写ってる幼い子どもたちはどうしているのだろう・・」「当時のことがどのように記憶の中に残っているのだろう・・」「この方たちにとって土倉の地はどう映っているのだろう・・」などなど写真を見ての思いは尽きない。その白川雅一氏の土倉の写真が何年か前、木ノ本町の役場だったか、公民館だったか忘れたが展示されることを知り、何をさておき喜び勇んで駆けつけたのを覚えている。まことに貴重な写真ばかりであった。

その後、その写真は町に寄贈されたそうで、何とかしてもう一度見たく思い問い合わせてみたのであるが、非常に迷惑そうな対応をされ、めげてしまって以来実現しないまま今日に到っている。今度はめげることなく、もう一度お願いしてみようかと思っている。


2003年9月撮影
コンクリートの柱とむき出しの鉄筋。

2003年9月撮影
見る角度によって、光と影の様々な風景を作り出す。


2003年9月撮影
この鉱山跡は写真好きにはたまらない空間である。ロケには最高かもしれない。でも安っぽい発想で臨むと、むき出しのコンクリート壁に完全に貫禄負けしてしまいそうだ。


廃坑の街、集落。その地に何百人と住んでいた人たちが、急に姿を消してしまう。そしてにぎやかだった街は廃墟と化す。住人の多くが次の鉱山や新しい職を求めて全国に散ってゆく。けい肺病や落盤事故、自然の脅威、いわば命をともにした仲間たち、家族たちとの別れ、経験していない者には到底わかるものではないだろう。以下の文は『湖国と文化』〜わがふるさと、ああ土倉鉱山(白川雅一氏の執筆)〜からの抜粋である。

『同じ釜の飯を喰った人々が、トラックに荷物を積み込んで、一戸減り二戸減り、次々と山を去って行く。去る者、見送る者、涙なみだの連続であった。(中略)

鉱山と共に生きてこられた先駆者及び従業員の皆さんは、創業以来六十年、戦前、戦中、戦後のきびしい社会事情の中で、我が国の必需産業の振興に理解と協力を惜しみなく続けてこられた。とくに戦時中は銅鉱の増産に次ぐ増産に、大変な努力してこられたのであるが、一方、けい肺病、白魔の襲来、伊勢湾台風に、家族ぐるみの大きな犠牲者出した事実を忘れることはできない。だが土倉の悲劇は、もう幻の土倉として、淋しく古老らに語りつがれているに過ぎないのである。』

※『湖国と文化、91年夏/第56号(特集:地図から消えた村2)』より引用


1993年8月撮影
出口土倉に残っていた社宅。R303をはさんで、鉱山跡とは反対側にある。
ここに住居が移る以前は、出口より北2km程奥に集落(土倉村)があり生活の場としていた。


1993年8月撮影
蔦がからまる社宅の内部が見える。中は仕切られた部屋があるだけ。何もかも共同で、安アパートの下宿生活を思わせるが、それでも「土倉村」の長屋と比べると雲泥の差だったそうだ。仕事も生活も共にする共同体、といった感じだったのだろうか。


私が訪れた92年頃には、R303をはさんだ鉱山跡の向かい側に、たくさんのつたがからみついた白い社宅が残っていた。もちろん中に入っても生活を感じさせるようなものはもう何もない。そこにはこういった所にありがちな、おバカな落書きと、ほこりだらけの腐りかけた床と壁板があるだけだった。また社宅前の草むらから、たくさんの小マムシが出迎えてくれたのも印象的だった。

昨年訪れた時は、それももう全てなくなっておりトンネルへ続く道路工事が行われていた。今はまだ、その堂々とした姿を見せてくれている鉱山跡も歴史が閉じられて人々が消えていったのと同様に、ただ消えていくのを待つだけなのかもしれない。


2003年8月撮影
主を失った住家を自然に戻そうと覆い隠す蔦。かつては多くの人たちが生活し、にぎやかな子どもたちの声が聴こえていたであろうこの地も、今はもう姿を消してしまって見ることはできない。


水たまりに、水を求めて蝶たちが集まるように
かつてこの地にも、多くの人々が集まった。
銅という赤い水を求めて・・。
しかし、赤い水が枯れた時、人々は消えていった。
残ったのは、静寂の中にたち続ける選鉱場・・
それと、水に集まる蝶たちだけ。
蝶は、とんでいってしまっても、また水を求めて戻ってくるが
水を失った人々は、もう二度と戻ることはできない。
それでも故郷を思う心は、命の続く限り消えることはない・・・



【参考資料】

財)滋賀県文化体育振興事業団:季刊誌『湖国と文化』1991年発行 第56号
角川書店:角川日本地名大辞典25滋賀県


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