〜わがふるさと、土倉鉱山〜 |
写真 : 白川雅一氏 |
ある日、一通のメールが届いた。
困ったことに私の受信ボックス、実は登録していない方からのメールが
そのメールは滋賀県在住の草野邦典さんという方からのものだった。 簡単にいうと、こういう内容だ。
「e−konの道をゆく」の廃村コーナーで公開している
『土倉鉱山跡』。
サイトの『土倉鉱山跡』のところにも書かせていただいているが、私は「湖国と文化」誌を拝見して以来、白川氏の撮影された写真を素晴らしく思い、ぜひもっと見てみたいと思っていた。
その後、滋賀県の木之本町で白川雅一さん撮影の土倉鉱山の写真展が開かれた時も、喜びいさんで遠く木之本町まで見に行ったのを覚えている。
そういうこともあり、土倉鉱山の氏の写真を見ることを半ば諦めかけた私にとって、草野さんからのこのメールは、まさに天からの贈り物であった。 そして大急ぎで返事を返した・・。 |
このサイトを立ち上げてまだ1年たたないわけであるが、その際に望んでいたことがいくつかある。
そのうちの一つは、取り上げた廃村などに実際に住まれていた方と何か共鳴できる部分を感じたい、ということである。 |
さて少し横道にそれてしまったが、
私は草野さんと待ち合わせ、草野さん宅でいっぷくの後、白川さん宅へと向かった。 写真展示は自宅ガレージで行なわれていた。まず、入り口上部の『土倉館』という手作りの表示看板が目立つ。この看板、見るからにあたたか味あふれ出る写真展であることを象徴している。
この日は台風が心配されていたのだが、幸い台風はそれてほとんど普段と変わらぬ風。
白川氏のことは、以前地元のテレビ局の「びわこ放送(BBC)」のニュース番組中に不定期で放映されていた『地図から消えた村』にも出演されていたので、こちらはよく知っている。 |
さて、手作り展示館『土倉館』の中を見てみよう。
写真が所狭しとたくさん貼られている。
氏の写真、以前から「あたたかさ」を感じていたのであるが、
通常、鉱山やその中で働く人たちへのイメージというのはどうしても厳しいものが多い。
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ひととおり写真を撮り終えて氏にお話をうかがうことにした。 以下にそれらをまとめてみた。
まず白川雅一さんであるが、現在お年は88歳である。
土倉鉱山の閉山は昭和40年。 |
鉱山についてであるが、女性従業員もけっこういたようである。
鉱山の坑内は奥に2km程あり、エレベーターで上下移動し |
次に土倉での生活の様子をあげてみよう。
写真にある仮装行列は一般の運動会で行われ、土倉の人たちの大きな楽しみになっていたようだ。
また鉱山には教養部と娯楽部と体育部(野球、卓球)があり、
子どもたちの小さい頃の遊びといえば「釘さし」だ。
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学校の様子はどうかといえば、
5年生になると下の集落『金居原』の本校まで往復12kmの道を通う。
こんな話をきいた。 親元を離れての寄宿生活といい、毎日の山坂道の12kmの通学といい、子どもにとっては辛い毎日だったに違いない・・いやいやとんでもない、それが当時では普通なのである。今のこの恵まれすぎた環境を基準に悲壮感をもって判断してはいけない。親元を離れるのは確かに寂しいかもしれない、だからといって辛い生活とは限らないのだ。久しぶりに帰った時に子どもたちを迎える母親は、父親は、そして久しぶりに親の顔を見た子どもたちは・・。やはり今を基準に考えるのはよくない。むしろ、今のこの時代こそ異常だった、という時が来るかもしれないのだから。 |
こういうこともうかがった。 事実をうかがうと、話は深刻なものであった。
元軍隊の衛生兵が、本物の免許の名前の所を書き換えて免許を偽造し、 |
閉山とその後の土倉についてもうかがってみた。
昭和40年の閉山の一番の要因は、
「こりゃあねえ・・、わたしら最後までおって、餞別も親しい人とかにせんなんし荷造りなんかもてつどうたりして・・そりゃあ、もう、さみしいもんですわ。」
「ほんで、帰ってからでもこの土倉には、春先の連休には名古屋から京都から、大阪・・各地から、九州あたりからはあまり来んけど、一族郎党ひき連れて土倉に来ますんやで。ごきげんさん!とばっかりに。4月の連休やから青もの(山菜)はいっぱいあるしね。それ採ったり、すき焼きやったり・・。」
現在、白川氏はどうかというと、今でも年に10回くらいは土倉を訪れられるそうだ。「青もの採りに行ったり、ぶらぁっと行ってみたり、秋は芋ほりに行ってみたり、ほんで行って、ここはこうやったんやなぁ、ああやったんやなぁと思い出しもって・・そりゃあ楽しいもんです。」「懐かしいし、年いったもんやなぁと思いますねぇ。お前元気やなぁ・・ってなもんでねえ」 生まれ育ち、幼い頃によく遊んだ思い出深い地で、随分と様子は変わってしまったものの年老いてからも訪れ、そして遊ぶ。そして今でも年に1回、昔の仲間たちがこの地に集まってくる。それぞれが、それぞれの地で故郷を思い故郷に戻ってくる。何か本当に素晴らしく感じてしまう。ここまで土倉を思い、仲間を思う、それはどこからくるのだろうか。 |
最後に、私の
「困ったことやつらかったことの印象はほとんどない。みんなが助け合って、労働組合の幹部としてもみんないうことをきいてくれたし・・、苦しかったということはないし・・、楽しかったねぇ。今では考えられんような一つの共同体というか、バラバラにならんとみんなが助けおうて、みんな親切にやってくれるし、事務所の人は困ってるときは面倒見てくれるし、子ども生まれたときも、(家族が)死んだときもみなやってくれるし、そういう点ではありがたいところあったし・・・よかったねぇ・・。鉱山生活は何とも味わえんもんがありましたねぇ。苦しかったより、ええ思い出がみんな多かったんと違いますか」
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今回、お話をうかがいました白川雅一様、
また作成におきましては、やはり土倉にお住まいでした ありがとうございました。 |
━お願い━ なお、ページ内の白川氏撮影の全ての写真は、写真展で展示されていたものを当サイト管理人が撮影し加工したものです。その際に、反射、ゆがみ、手ぶれなどが生じているものがあります。これらは全て管理人の責任であり、白川氏の写真に起因するものではありません。 |
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