〜わがふるさと、土倉鉱山〜


写真 : 白川雅一氏


ある日、一通のメールが届いた。

困ったことに私の受信ボックス、実は登録していない方からのメールが
なぜか勝手に迷惑メールのフォルダに入ってしまうことがあり、
この時も知らぬ間にそのフォルダに入ってしまっていた。
本当に危うく見逃してしまうところだった。
だから気づいたのもメールが届いてから数日たってのことで、
もし見逃してしまっていたら、おそらくずっと後悔することになっただろう。
もちろんいただいた相手にも失礼きわまりない。

そのメールは滋賀県在住の草野邦典さんという方からのものだった。
何気なく目を通す。
驚いた。

簡単にいうと、こういう内容だ。

「e−konの道をゆく」の廃村コーナーで公開している 『土倉鉱山跡』
その中で季刊誌「湖国と文化」の『地図から消えた村』という特集記事から、
白川雅一さんという土倉鉱山で生まれ育った方の手記を一部引用、紹介させて
いただいているのだが、実はその白川雅一さんと草野さんがお知り合いというのだ。
そして草野さんが当サイトをご覧になられ、白川さんの手記が紹介されている
ということをご本人にお伝えになり、サイトの『土倉鉱山跡』のところを印刷して
渡されたそうだ。
それを白川さんが読まれて感激され、一度私に会ってみたいと言われているとのこと。
また近々、地蔵盆に合わして繁栄当時の土倉鉱山の写真や資料を展示公開するので見に来ませんか、というお誘いも書かれていた。

土倉鉱山の繁栄当時、採鉱課事務所で使われていた時計。今回の白川氏の写真展で写真とともに展示されていた。今も十分に動くという。





サイトの『土倉鉱山跡』のところにも書かせていただいているが、私は「湖国と文化」誌を拝見して以来、白川氏の撮影された写真を素晴らしく思い、ぜひもっと見てみたいと思っていた。
氏の写真は本当にあたたかく、そして切ないのである。
切なく感じるのは、やはり今となっては見ることのできない光景、涙ながらに全国に散って行った鉱山仲間たち、そういうイメージがあるからだろう。

その後、滋賀県の木之本町で白川雅一さん撮影の土倉鉱山の写真展が開かれた時も、喜びいさんで遠く木之本町まで見に行ったのを覚えている。
さらにそれだけでは足らずに、氏が町に寄贈された未公開の写真も見せてくれ、
と町にお願いしている。
しかし残念ながらそれは実現せず、悔いを残したまま今日に至っていたのである・・。

そういうこともあり、土倉鉱山の氏の写真を見ることを半ば諦めかけた私にとって、草野さんからのこのメールは、まさに天からの贈り物であった。
さらにそれに加えて白川氏から生の話もうかがえるのだ。
もう、行かないはずがない。

そして大急ぎで返事を返した・・。


このサイトを立ち上げてまだ1年たたないわけであるが、その際に望んでいたことがいくつかある。

そのうちの一つは、取り上げた廃村などに実際に住まれていた方と何か共鳴できる部分を感じたい、ということである。
お住まいだった方は皆さんかなりのご高齢になっているだろうから、
実際はこのサイトを目にする機会はほとんどないのかもしれない。
でもご本人でなくても関係者の方がもしご覧になり、それを伝えられたら・・。
それは決して実現不可能なことではないだろう。
そういうことで今回、実際に『土倉』を故郷とされる方と
共有する部分が持てたことを素直に嬉しく感じたのである。
加えるなら、私はたとえ内容や表現が稚拙であれ未熟であれ、
その段階で自分が作ったものには誇りを持ちたいと考えている。
廃村をこういうネットで取り上げることに関しても、堂々としていたい。
そこに住んでおられた方が目にしても共有できる部分が持てるような、
そういう中味にしていきたいと考えている。


さて少し横道にそれてしまったが、
そうこうして草野さんとメールのやり取りをやっていく中で、
具体的な日が決まり白川氏とお会いできることになった。
8月の終わりのこの日はちょうど地元の地蔵盆の最終日で、
氏はそれの役員もされているという。
写真展示は自宅で行なわれ、その準備も全てご自分でやられているそうだ。

私は草野さんと待ち合わせ、草野さん宅でいっぷくの後、白川さん宅へと向かった。
もともとは草野さんのお母さんが白川さんと町内のカラオケ会でご一緒で、
それがきっかでお知り合いになられたとのこと。
地蔵盆の役員といいカラオケ会といい、
地元でも白川氏が慕われている様子がよくわかる。



写真展示は自宅ガレージで行なわれていた。まず、入り口上部の『土倉館』という手作りの表示看板が目立つ。この看板、見るからにあたたか味あふれ出る写真展であることを象徴している。

自宅ガレージで開かれた写真展、入り口上部には手作りの表示看板が設置されていた。

この日は台風が心配されていたのだが、幸い台風はそれてほとんど普段と変わらぬ風。
これも本当によかった。
台風の強風でも吹くものなら、それこそ手作りのこれら装飾されたものは
飛んでいってしまいそうである。
近づくと中で話し声が聞こえる。
お客さんが来られているようだ。
草野さんがカーテンを開けて声をかける。
その語り方で、気兼ねのないお二人の関係がよくわかる。
そして紹介していただく。

白川氏のことは、以前地元のテレビ局の「びわこ放送(BBC)」のニュース番組中に不定期で放映されていた『地図から消えた村』にも出演されていたので、こちらはよく知っている。
何か初めてあったような気がしなかったが、あちらは初めてである。
私なりに?丁寧に挨拶をする。
それに対して白川氏も気さくに挨拶を返してくれる。
やはり思っていたとおりのお人柄である。
ちなみに私は丁寧な言葉遣いをしようとすればするほど、
わけのわからないことを言ってしまう。
だから、そういうのは苦手だ。



多くの写真と、当時の様々なものが展示されている。中央テーブルには、今回の写真展を報じる新聞も置かれていた。

さて、手作り展示館『土倉館』の中を見てみよう。

写真が所狭しとたくさん貼られている。
その他にもランプや古びた時計、労組の旗、茶釜、土倉で掘られたであろう鉱石・・などなど、当時を思わせる展示物などもある。
う〜ん、何から見ようか・・と迷ってしまう。
中には以前に見覚えある写真もあり懐かしい。
早速、写真を撮影することを了承していただき、撮りまくる。

氏の写真、以前から「あたたかさ」を感じていたのであるが、
その理由がたくさんの写真を見る中で何となくわかってきた。
それは写っている人たちの表情である。
撮影する白川氏の人柄で撮影される人たちの表情がやわらぐ・・
そんな感じだ。
たとえばトロッコに乗って坑道へと入ってゆく坑夫さんの表情、仕事を終え家路につく坑夫さんたちの表情、そして子どもたち・・皆、表情がいいのだ。

トロッコに乗り入坑する。こちらを振り向く坑夫の笑顔、おそらく撮影者の白川氏に向けられたものだろう。

撮影:白川雅一氏



土倉の子どもたちのあどけない笑顔。二人は兄妹なのか、近所の仲良しなのか。

撮影:白川雅一氏



運動会で応援する人たちの笑顔、何ともいい。集落の人たち全員で作り上げる運動会。応援にも力が入るにちがいない。

撮影:白川雅一氏

通常、鉱山やその中で働く人たちへのイメージというのはどうしても厳しいものが多い。
光のない暗い坑内、極度に狭い空間、事故(死)と隣り合わせ、
汚れた空気、男の汗と血・・映画で言えば、白黒で中間調のとんだ映像。
そんな感じがする。
しかし、氏の写真はそういうイメージが感じられない。
だからと言って、土倉鉱山の仕事にそういう厳しさがないはずがない。
やはりこれは写真を撮る人の人柄と両者の関係で生まれてくるものなのだろう。



朝、鉱山へ出勤する夫を見送る母子。

撮影:白川雅一氏



坑内の休憩室でくつろぐ。

撮影:白川雅一氏


ひととおり写真を撮り終えて氏にお話をうかがうことにした。
その間も、多くの人たちが写真展を見にやってくる。
展示館中央に置かれたテーブルの上には新聞のコピー。
昨日に新聞社の取材があったそうで、今日発行の新聞に掲載されていたそうだ。
実際、訪れた方の多くが、新聞を見て来られていた。
「今日はこのおかげで人が多いなぁ」
とにこやかに話される白川氏。
多くの方が来られている中、申し訳ないなぁと思いながら
お話をうかがうことにした。

以下にそれらをまとめてみた。



写真展での白川雅一氏。あふれんばかりの創作心で周りの人を驚かす。気さくなお人柄は、周りの人をひきつける。

まず白川雅一さんであるが、現在お年は88歳である。
ということは、お生まれは1917年(大正6年)頃ということか(正式な生年月日を聞くのを忘れてしまった・・)。
それまで個人企業であった土倉鉱山が「田中鉱業(株)」として
会社となったのが大正5年であるので、お生まれになった時は
既に大きな会社として創業しており、生まれも育ちも土倉
という氏の言葉が納得できる。
お父さんも土倉で働いておられ、戦争と学校卒業後の一時期に
大阪へ行かれていた以外は全て土倉での生活、
もう土倉一色である。
鉱山での白川氏は採鉱事務所で働いていたが、
坑内に入ることもあったという。
また労働組合で力を発揮される一方で、鉱山の教養部として
当時の様子を多数写真で記録されている。
今回展示されていた写真もその時のものだ。
ちなみに今回公開させていただいた写真、
その大部分は白川氏の撮影によるものであるが
一部、会社が記録として残していたものを、白川氏が後に撮影されたものもある。

鉱山事務所の風景。

撮影:白川雅一氏

土倉鉱山の閉山は昭和40年。
苦楽をともにした仲間たち、彼らが土倉の地を去ったあとも
氏は最後まで残務整理のため土倉におられたという。
土倉で生まれ育った男が、土倉の最後を見届けた、ということか・・。


選鉱場で働く女性従業員。

撮影:白川雅一氏



採鉱課の事務所で働く方たち。女性の姿も見える。

撮影:白川雅一氏

鉱山についてであるが、女性従業員もけっこういたようである。
事務関係以外でも選鉱場の中でも女性は働いていたが、
さすがに坑内に入るのは男だけだったようだ。
その抗夫であるが、この土倉で働くには採用試験を受けなければ
ならなかった。
大きくて硬い岩をつるはし一本で砕いていくのである。
そう簡単にできるものではない。
そこでその能力を試すために、実際に岩につるはしを打ち込ませて
その力を見る。
今も川横に、穴があいている大きな岩があるのだが、それはその時の
採用試験で使われたものらしい。

深い坑内で掘削作業中。防塵マスクを着用しているのがわかる。

撮影:白川雅一氏



現在、白川氏の手元に残る防塵マスク。今回の写真展でも展示されていた。

鉱山の坑内は奥に2km程あり、エレベーターで上下移動し
20mスパンで横穴を掘ってゆく。移動はトロッコだ。
鉱山といえばすぐにイメージがわくのが落盤事故であるが、
幸い土倉では死者の出るような大きな落盤事故はなかったようである。
しかし「けい肺病(塵肺病)」による犠牲者は多かったようで、
戦後すぐに法律で、坑内作業でのマスク着用と粉塵が舞わないよう
水をまきながらの作業などが義務付けられたものの、
それ以前は口にタオルを巻いての作業であり、
さらにそれも苦しいというのでとってしまって作業をする者が
多かったという。
そのため法律ができた時は、
多くの抗夫がけい肺病にやられてしまっていたそうで
鉱山での仕事の身体への危険度の高さがよくわかる。
マスクが義務化されても、それをつけながらの作業は
大変息苦しかったようである。
狭い坑内、汚れた空気、激しい労働に必要な十分な酸素が
マスクによって得にくくなる、
しかしそれを取れば粉塵が肺を襲う、
それでも男たちは毎日トロッコに乗って深い坑内に入ってゆく。
男たちの叫び、家族たちの心配、多くのドラマがあったことだろう。
鳴り響く機械音、岩を砕く音、トロッコとレールの響く音・・
多くの音が絶え間なくきこえていたことだろう。
今は荒涼として、風の音かそれに揺れる植物の音、
それに時おり獣の声が聞こえるだけの土倉の地で、
かつては多くの音が聞こえていたのである。


次に土倉での生活の様子をあげてみよう。

写真にある仮装行列は一般の運動会で行われ、土倉の人たちの大きな楽しみになっていたようだ。
上新町、北町、新町・・などの地区別に披露する仮装行列、
本番までは一切、他の地区の人に内容を明かすことはなかったそうだ。
超極秘なのだ。
おそらくこの時期は、毎晩遅くまで多くの人たちが集まり準備していたのだろう。
もちろん、一杯飲みながら。
そして本番では、地域一丸になって披露する。
盛り上がらないはずがない。
写真を見ても、その時の雰囲気が伝わってくる。

仮装行列。後に選鉱場が見える。

撮影:白川雅一氏



仮装行列。もちろん子どもたちも参加する。

撮影:白川雅一氏



仮装行列。それぞれの地区ごとに披露される。

撮影:白川雅一氏



仮装行列。当日までは他地区に仮装行列の内容を明かすことは決してない。

撮影:白川雅一氏



仮装行列。この子どもたちの中で、どのような思い出として残っているのだろう。

撮影:白川雅一氏



仮装行列。老若男女、演じるもの、見ている者、皆で楽しむ。

撮影:白川雅一氏

また鉱山には教養部と娯楽部と体育部(野球、卓球)があり、
それぞれが活発に活動されていた。
映画館では映画が常に上映され、それこそ山を降りなくても十分に文化的生活ができていたのである。
生活用品の入手は空中索道やトラックで木之本から仕入れられており、
原価で安く販売がされていたが、そのぶん賃金も安かったらしい。
集落の人々皆が同じものを購入するため、晩御飯のおかずの献立はどの家庭も同じ。
まさに「同じ釜の飯」という感じだったそうだ。
また、今は滋賀県の木ノ本町から土倉、そして八草トンネルを通って岐阜県へ国道R303が通っているが、当時も鉱山に必要な資材を運ばなければならないため、未舗装ながらきちんとした道が当時もついていた。しかし今とは事情が違う。道が悪いためトラックのサスペンションのばねが傷み、運転手は弱っていたそうである。

労組の総会が行われているこの会場、ここが映画館である。常に新しい映画が上映されていたそうだ。

撮影:白川雅一氏



空中索道。木ノ本町から土倉まで多くの物資を運んだ。

撮影:白川雅一氏



空中索道。写真上部に写っているのがわかるだろうか。

撮影:白川雅一氏



空中索道。雪の積もる冬も稼動する。

撮影:白川雅一氏

子どもたちの小さい頃の遊びといえば「釘さし」だ。
これは、五寸釘を投げて地面に突き刺して相手の釘を倒すという、
釘でやるメンコのようなものだ。
何かその情景が目に浮かぶが、
どうしても白黒の映像でイメージが浮かんでしまう。
実際に体験した方は、カラーのイメージで当時を思い出されるのだろうか・・。
子どもは遊びだけでなく手伝いもする。
白川氏の幼い頃は、まだ電気が来ていなかったためランプ生活であった。
金居原まで電気は来ていたが、そこから先は雪で電柱が倒れてしまうため、最後まで開通しなかったそうである。
そのため子どもたちは学校から帰るとランプを磨くのが仕事だった。
結局、電気の開通は昭和5年の自家用水力発電完成によるもので、
その時初めて各家庭に電灯が灯り、皆その便利さに驚いたという。

このランプも、写真展に展示されていたものだ。子どもたちは帰宅するとこれを磨くのが仕事だった。



発電所の水道パイプ。これのおかげで土倉に電灯が灯ることになる。

会社で撮影記録されたものを白川雅一氏が撮影



発電所の取水口。

会社で撮影記録されたものを白川雅一氏が撮影


学校の様子はどうかといえば、
子どもたちは1〜4年生までは集落内にある小さな分教場に通う。
白川氏が通われた頃は20人ほどの生徒数だった。
そこに先生は一人。
学年は関係なく、全て一つの教室で授業を行なう。
今のように勉強にうるさい時代ではない。
先生は一人ずつ順にまわって教えてゆき、自分の番がくるまでは自習となる。
また、日によっては1〜3時間目は時代物小説「荒木又右エ門」の本を読むなど、今と違い、いたって大らかであった。
土倉の分教場はとても小さかったので、運動会は本校(杉野小学校)で実施されていた。
普段、小さい分教場しか知らない子どもたち。
たまに行く本校のグラウンド。
白川氏のことば・・
「ほりゃあ、広いんやー!」
である。

5年生になると下の集落『金居原』の本校まで往復12kmの道を通う。
単に12kmではない。
土倉に行かれた方ならわかると思うが、ここは山坂道である。
行きは下り道、帰りは上りとなる。
熊も出るところだ。
そこを元気に通う子供たちの姿を想像してみる。
何と逞しいことか・・。
それでも2〜3学期の冬場になると雪のために土倉からの通学は不可能になる。

土倉の子どもたち。この時代、年上の子が子守をするのは当たり前。

撮影:白川雅一氏



土倉の子どもたち。後ろに咲いているのはコスモスか。やがてやってくる厳しい冬を前に記念撮影。

撮影:白川雅一氏



土倉の子どもたち。何ともあたたかそうな服だ。

撮影:白川雅一氏



土倉の子どもたち。子どもの中で子どもは育つ。

撮影:白川雅一氏

こんな話をきいた。
鉱山内の男たちの関係は抗夫の親分子分の関係の他に、
会社であるので当然上下の関係がある。
しかしそれが子供同士の関係に影響することはなかったようで、
学校では所長の息子も抗夫の息子も皆同じ・・。
ただ寄宿生活の時だけは違った。
鉱山所長の息子などは・・「くうもんがちがう」だったそうである。

親元を離れての寄宿生活といい、毎日の山坂道の12kmの通学といい、子どもにとっては辛い毎日だったに違いない・・いやいやとんでもない、それが当時では普通なのである。今のこの恵まれすぎた環境を基準に悲壮感をもって判断してはいけない。親元を離れるのは確かに寂しいかもしれない、だからといって辛い生活とは限らないのだ。久しぶりに帰った時に子どもたちを迎える母親は、父親は、そして久しぶりに親の顔を見た子どもたちは・・。やはり今を基準に考えるのはよくない。むしろ、今のこの時代こそ異常だった、という時が来るかもしれないのだから。


こういうこともうかがった。
「ニセ医者事件」の話である。
なぜか、私の中で以前から気になっていたのだ。
それは、幼い頃どこかでこの話を聞いたのか、この「ニセ医者」ということばの響きが妙に頭の中に残っていたからである。

事実をうかがうと、話は深刻なものであった。

元軍隊の衛生兵が、本物の免許の名前の所を書き換えて免許を偽造し、
医者に成りすまして治療にあたっていたというのだ。
免許がなくても知識と技術があるならまだましだ。
そちらのほうもいい加減だったようで、子どもに大人の量の薬を飲ませ死亡させる、その医者にかかった患者が亡くなる、「ひょうそ」で診察に来た子どもに麻酔も何もなしに手術して爪を抜く、などなど無茶な診療が相次ぐ。
「なんせあらっぽかった」らしい。
結局そのように評判が非常に悪かったために新聞社がそれを調べ、
ニセ医者ということが発覚したそうだ。
その頃は、この山奥の鉱山の集落に毎日のように新聞社がやってきて、
全国に報道されていたようである。
その後は木之本から免許を持った、きちんとした医者が来たということだ。


土倉鉱山の坑車。

撮影:白川雅一氏

閉山とその後の土倉についてもうかがってみた。

昭和40年の閉山の一番の要因は、
貿易自由化による海外からの安価な銅の流入である。
価格で太刀打ちするのは不可能で、やがて事業縮小、
従業員削減となり、全面閉山となってしまう。
従業員は段々と減ってはいたが、多くの者は直前まで閉山になることを
知らない状態で、ほとんどが寝耳に水という感じだったらしい。
従業員の3分の一は同じ系統の鉱山関係の会社にかわっていき、
その他の者は金居原に残る者、木之本へ行く者、九州に帰る者、
皆それぞれだったようである。
先にも述べたが、白川氏は閉山後も最後まで残務整理にあたられていた。
幼い頃よりともに生き、ともにすごした長年にわたっての仲間を、
今度は去りゆく人として見送らなければならなくなる運命・・。
その時の気持ちはいかなるものなのか、はかり知れない。

選鉱場正面。

撮影:白川雅一氏



今なおコンクリートの残骸を残す、かつての選鉱場。

撮影:白川雅一氏



選鉱場正面。

撮影:白川雅一氏



1992年8月、選鉱場跡



2004年12月、選鉱場跡

「こりゃあねえ・・、わたしら最後までおって、餞別も親しい人とかにせんなんし荷造りなんかもてつどうたりして・・そりゃあ、もう、さみしいもんですわ。」
と静かに、そしてゆっくりと語る白川氏だった。
だが、その後に続いて語ることばは力強くなる。

「ほんで、帰ってからでもこの土倉には、春先の連休には名古屋から京都から、大阪・・各地から、九州あたりからはあまり来んけど、一族郎党ひき連れて土倉に来ますんやで。ごきげんさん!とばっかりに。4月の連休やから青もの(山菜)はいっぱいあるしね。それ採ったり、すき焼きやったり・・。」
私は聞き返した。
「今でも続いているんですか?」
「ほらもう毎年!にぎやかなもんや。まだ続いてまっせ。今でもやってる。その他には年賀状で確かめ合ったり・・。そういう絆というのはやっぱり強いですな。」
正直驚いた。
閉山からもう既に40年以上だ。
数年続く、というのはよくあるだろうし、10年続くと「すごいなぁ」と感じる。それが40年である。なんでだろう・・と驚く私に氏は続ける。
「おんなじ釜の飯を喰ったもの同士、葬式でもみんな助けおうてやるし・・、そういう助けおうたことがみんな懐かしいんやね。」
横から草野さんが
「その中でも白川さんは最高齢とちがうか?」
と声をかける。
すると元気に笑いながら氏は答える。
「もう、いつも最高齢や。カラオケやっても最高齢や。写真やっても最高齢や。」
その様子を見ていると、なぜこの故郷での集まりが40年以上も続いているのかが、私にもわかるような気がした。

かつての坑道入り口。

撮影:白川雅一氏



2004年12月、坑道入り口

現在、白川氏はどうかというと、今でも年に10回くらいは土倉を訪れられるそうだ。「青もの採りに行ったり、ぶらぁっと行ってみたり、秋は芋ほりに行ってみたり、ほんで行って、ここはこうやったんやなぁ、ああやったんやなぁと思い出しもって・・そりゃあ楽しいもんです。」「懐かしいし、年いったもんやなぁと思いますねぇ。お前元気やなぁ・・ってなもんでねえ」

生まれ育ち、幼い頃によく遊んだ思い出深い地で、随分と様子は変わってしまったものの年老いてからも訪れ、そして遊ぶ。そして今でも年に1回、昔の仲間たちがこの地に集まってくる。それぞれが、それぞれの地で故郷を思い故郷に戻ってくる。何か本当に素晴らしく感じてしまう。ここまで土倉を思い、仲間を思う、それはどこからくるのだろうか。


土倉出口のブロック住宅建設工事。それまでの杉板住宅とはもう雲泥の差だったという。

撮影:白川雅一氏



ブロック住宅建設工事。1,2階で1世帯、トイレ、台所が1階にある。しかし大きな問題があった。猛烈な湿気である。あらゆるものがカビてしまったそうだ

撮影:白川雅一氏



ブロック住宅前で元気に遊ぶ子どもたち。

撮影:白川雅一氏



1993年8月のブロック住宅。



2005年8月のブロック住宅周辺の風景。もう建物は取り壊されて久しく、今は八草トンネルへの道路工事が行なわれており、かつての面影は見ることはできない。

最後に、私の
「苦しいこととか、困ったこととかありましたか?」
という質問に答えられた白川雅一さんのことば、
これで『わがふるさと、土倉鉱山』を締めくくりたいと思う。
この中にそれが含まれているような気がするからだ。




「困ったことやつらかったことの印象はほとんどない。みんなが助け合って、労働組合の幹部としてもみんないうことをきいてくれたし・・、苦しかったということはないし・・、楽しかったねぇ。今では考えられんような一つの共同体というか、バラバラにならんとみんなが助けおうて、みんな親切にやってくれるし、事務所の人は困ってるときは面倒見てくれるし、子ども生まれたときも、(家族が)死んだときもみなやってくれるし、そういう点ではありがたいところあったし・・・よかったねぇ・・。鉱山生活は何とも味わえんもんがありましたねぇ。苦しかったより、ええ思い出がみんな多かったんと違いますか」


撮影:白川雅一氏




今回、お話をうかがいました白川雅一様、
このような素晴らしい機会を作っていただいた草野邦典様には、
心より感謝しお礼申し上げます。

また作成におきましては、やはり土倉にお住まいでした
竹村進様作成の文書を参考ならびに引用させていただきました。
あわせて感謝の意を表します。

ありがとうございました。


━お願い━
「e−konの自由帳〜わがふるさと、土倉鉱山〜」に掲載されている白黒写真は、
白川雅一氏のご好意によって掲載させていただいているものです。
使用権、所有権、著作権は全て白川雅一氏にあります。
無断コピーおよび転売、譲渡、貸与、無断転載は、絶対にお止めください。
どうぞ宜しくお願いいたします。



なお、ページ内の白川氏撮影の全ての写真は、写真展で展示されていたものを当サイト管理人が撮影し加工したものです。その際に、反射、ゆがみ、手ぶれなどが生じているものがあります。これらは全て管理人の責任であり、白川氏の写真に起因するものではありません。



■e−konの道をゆく■