〜わがふるさと、土倉鉱山〜

かつての土倉鉱山(奥土倉)の風景。今の鉱山跡より2km程奥である。

会社で撮影記録された写真を白川雅一氏が撮影


奥土倉の風景。鉱石はカマスに入れられ、馬車で中ノ郷駅まで運ばれる。

会社で撮影記録された写真を白川雅一氏が撮影


奥土倉の風景。手前の家屋は所長宅。杉板の家屋といえども、壁は他の家屋より厚く、つくりはだいぶん違っていたそうだ。

会社で撮影記録された写真を白川雅一氏が撮影


選鉱場跡から奥土倉へ向かう。進んでゆくほど道幅は狭く草で覆われてくる。

2005年8月撮影



奥土倉への道。川沿いの道を奥に進む。この川の両岸にかつては多くの施設があったはずだが、今はほとんどその面影を見ることはできない。

2005年8月撮影



奥土倉への道。道の山側にコンクリートの基礎が残っていた。何の施設のものなのだろう。またこれらは夏場は草で覆われ、探すことさえ困難になる。

2004年12月撮影



奥土倉への道。これは配水関係のものなのだろうか。

2004年12月撮影



奥土倉への道。このようなコンクリートの基礎はいくつか見ることができるが、それが何のものなのかは当時をよく知る者でないとわからないだろう。

2004年12月撮影



奥土倉への道。路面から突き出したこのコンクリート塊、崩れて落ちてきたものなのだろうか。

2004年12月撮影



上新町の社宅。

撮影:白川雅一氏



出合付近の民家。後には雪が残っている。

撮影:白川雅一氏



出郷橋と向こうに見える民家。ここでもまだ雪が多く残っている。

撮影:白川雅一氏



おそらくお孫さんなのだろう、子守りをする老女。

撮影:白川雅一氏



下町から奥土倉方面を撮影。川には多くの橋が架かっている。

撮影:白川雅一氏



5月に行なわれる山神社祭り。

撮影:白川雅一氏



物資運搬のトラックだろうか・・。

撮影:白川雅一氏



年に一度の運動会。多くの人が楽しみにしていたことだろう。

撮影:白川雅一氏



運動会の華、短距離走。かけっこの一番はクラスでも人気者。

撮影:白川雅一氏



運動会。子どもから大人まで全力で走る。

撮影:白川雅一氏



運動会。町内皆で応援をする。

撮影:白川雅一氏



運動会。花輪には「卓球部殿」と書かれている。卓球で優勝された方たちか。

撮影:白川雅一氏



中町の仮装行列。水戸黄門??花さか爺さん??なんだろう?

撮影:白川雅一氏



仮装行列。この日のために、それぞれ極秘に準備を進め、皆を驚かす。

撮影:白川雅一氏



入坑を待つ前のひととき。掲示板には「作業後の5分間清掃」と書かれている。

撮影:白川雅一氏



坑道入り口前で入坑を待つ。今は静けさの中で、封鎖された坑道入り口だけが見える風景だが、かつてはこんなににぎやかで活気あふれる風景が見られたのだ。

撮影:白川雅一氏



坑口の神様に今日も安全を祈り入坑する。

撮影:白川雅一氏



そして仕事を終え出坑。今日も安全に終えたことを感謝する。

撮影:白川雅一氏


坑内で粉塵測定をする。

撮影:白川雅一氏



選鉱場内の脱水機の修理。

撮影:白川雅一氏





上から見た選鉱場の全景。

撮影:白川雅一氏



今も残る坑道横にある『土倉鉱山鉱友顕彰碑』。

2005年8月撮影



夏は多くの植物に覆われる選鉱場跡。堅牢なコンクリートの骨組みも徐々に自然にかえろうとしている。

2005年8月撮影



川向こうに見える苔で覆われた石垣跡。

2004年12月撮影



夏場には坑道入り口も草で覆われる。かつて坑夫の安全を守り続けた坑道上の祠の神様も、もうその姿を見ることはできない。

2005年8月撮影



滋賀県木ノ本町土倉。かつてこの地に鉱山が栄え、多くの人が集まり多くのドラマが生まれた。しかし閉山により人々は去り、村は姿を消すことになる。41年が過ぎ、その面影を伝えるものも徐々に姿を変え、自然に同化しつつあるが、人々のこの地への思いや刻んできた歴史は消えることなく、今なお我が故郷として多くの人が足を運ぶ。長い年月が経過し姿を変えようとも「わがふるさと、土倉鉱山」は変わることはない。

2004年12月撮影



2005年8月撮影









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