保月

━滋賀県犬上郡多賀町━

昭和51年廃村
(冬季に無住化)


数え切れなき歩みに踏みしめられし 故郷の道なり
木々の闇におびえて歩を速め 花の美しさに見入り歩を休める
遠き故郷の愛する人への思いが 音をあげる脚を励まし
近づく故郷の愛する人への思いが 最後の力を歩に与える
いくつかの峠を越え 月の光の中に見えし里は
  今日の宿 そして昨日の故郷
遠き異国に散りし 18の御魂たちも
もうその地を踏めぬと悟った時 自らが故郷となったことに気づく
愛する人の涙に心が揺れつつ 愛する人の花に心が休まる
同じくするは故郷への思い 結びつけるは二つの思い
行く道 来る道 もう踏めぬは故郷の地





2004年6月撮影
『保月』に向かう道、そして去る道。年が経つほどに通る人の数は少なくなる。この『保月』は日中・太平洋戦争で18名もの戦没者を出している。村の人数から考えると、大変多いのではないか。これからの『保月』の屋台骨となるべく多くの若者たちが、遠く異国の地で命を落とすことになってしまった。これは、その後の『保月』に大きく影響したことは間違いないだろう。この道を通って村を出てゆき、そして二度と戻ってくることのなかった若者たち、お盆の時期には若くして散った命の供養に、家族の人たちがこの道を通って『保月』に帰ってくる。


みなさんは「故郷(ふるさと)」というと、どういう風景を思い浮かべられるだろう。唱歌「故郷」にあるような山、川、そして父、母などを思い浮かべられるだろうか。それとも、そういう故郷は遠い昔のことで、単に実家の父母の家屋などの風景を思い浮かべられるのだろうか。あるいは古い映画の中のワンシーンのようなものが浮かんでくるのだろうか。それともそのことばからは、もう何のイメージも浮かんでこないのだろうか・・。もし「故郷(ふるさと)」ということばから何のイメージも浮かんでこない、多くの人にとってそのことば自体が死語のようになっていくのだとしたら、そういう社会は悲しむべき社会といえるのではないだろうか。たとえ形は違っても「故郷(ふるさと)」というイメージは、人それぞれの中に、それぞれの形で残っていってほしいものである。

「故郷(ふるさと)」
1914(大正3)年、尋常小学唱歌
作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一
兎追ひしかの山 小鮒釣りしかの川  夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
如何にいます父母 恙なしや、友がき  雨や風につけても 思ひいづる故郷
こころざしをはたして いつの日に帰らん  山はあをき故郷  水は清き故郷


2004年7月撮影
これは高島市(旧今津町)椋川の集落である。緑の中に茅葺屋根の家、実に美しい。これだけ美しく保たれている茅葺民家も数少なくなってきているのではないだろうか。私の中では、こういう風景こそ「故郷の風景」である。


私は廃村や過疎の村、山村の風景が好きで滋賀県内を中心にいろいろな所を訪れてきた。その中で私の中の「ふるさと」のイメージにあてはまる所が二つある。一つは琵琶湖の西の山奥、福井県境に近いところの『椋川』地区の集落である。それほど高くない山に囲まれ、ある程度の広さを持った緑の平地と、そこを流れる澄んだ水の小川。そして茅葺屋根の家々や田畑。そこは四季それぞれの彩りを持った風景を見せてくれ、ゆっくりと時間が流れてゆく。私がこの山奥の集落『椋川』を初めて訪れた時、「これぞ、故郷の風景・・」というイメージを強く感じたことを覚えている。


1992年8月撮影
私が初めて『保月』を訪れた時に撮影したものである。この時は確か権現谷林道からアサハギ林道を通って行ったように記憶している。未舗装の狭路を走っていると、突然その集落は現れた。写真は『五僧』方向に向かっての撮影である。


2004年6月撮影
昨年訪れた時のもの。空き地には草が伸びてはいるものの、残っている家屋の多くはきれいに手入れされている。この集落の中央を走る道は『五僧』方向に向かってなだらかな下り坂になっている。


2001年8月撮影
『杉』方面から来ると、集落の入り口に位置する八幡神社。昭和24年に火災で焼失し、同25年に新築され今日に到っている。

2004年8月撮影
神社の境内といえば、子どもたちの遊び場、老人たちの憩いの場・・。かつてはここで子どもたちの元気な声が聞こえたことだろう。今もこの神社はきれいに手入れされている。


そして二つめが今回取り上げたところの、冬季に無住となる集落の『保月』である。600mという高地ゆえ、広々とした平地があるわけではないが、鈴鹿山脈のこのあたりに広がるカルスト地形のドリーネ(凹状部)に位置するこの集落は、四方を山に囲まれ、その中央を走るなだらかな傾斜の決して幅広くない道、その脇に並ぶ古い家屋、茅葺の家、神社、寺そして小さな木造校舎(今はもうないが・・)など、私の中の「ふるさと」ということばのイメージに非常に近いものだった。山間の狭路を走って、ようやくここにたどり着いた時、何かすごく安心したのを覚えている。ただ、通常の山村集落の風景と違っていたのは、きれいに手入れされた家屋とそれと対照的な家屋、そう、朽ち果てつつある家屋が多く存在していたことである。イメージとしては「ふるさと」のイメージであったのだが、妙にさみしさを感じたのはそのせいだろうと思う。


1992年8月撮影
崩れ落ちようとする廃屋と残りゆく廃屋。奥に見える茅葺の家は10年以上たった今もなお健在である。手前の茅葺家屋は現在は跡方もなく消え、空き地となっている。人と家屋はともに生きている、ということを強く感じる。


2003年8月撮影
今も残る、元教員宿舎の壁面には「ここは多賀町大字保月:多賀町ふくしの町づくり運動・社会福祉協議会」と書かれたプレートがはられている。

2004年6月撮影
同じプレートが他の建物にもはられていた。このようなプレートは『保月』だけではなく『杉』、そしてこの地域のあちこちで見ることができる。


この『保月』の集落は 『五僧』の項でも述べたように、歴史的には「五僧越え」という、主要街道の間道の道沿いにある集落として長らくにぎわっていた。今でこそ、人が住むことのできる家屋がわずかになってしまっているが、その昔は美濃の国と近江の国を行き来する旅人たちの為の、100人も泊まれるような宿屋、そして質屋、酒屋まであったという。五僧越えの道に存在する集落の中でも大きな規模で、そして旅人や住人など多くの人たちでにぎわっていたことだろうこの集落も、時代の流れとともに大きく姿を変えていったのである。『杉』『五僧』とともに脇ヶ畑村となった時も、村の中心は『保月』で、学校や役場、郵便局など主要施設はすべてここ『保月』にあった。また多賀町となってからもそれを引き継ぐ形で、役場支所や主要施設などは全てここに置かれていた。


1994年8月撮影
多賀(犬上東)中学校脇ヶ畑分校があったと思われる、町立脇ヶ畑小学校跡。左の小さな建物はトイレである。学校とは棟続きになっていて、現在はそれだけが残されている。

2001年8月撮影
石碑の拡大である。小学校と中学校の位置関係については、もう一度現地で確かめてみようと思う。


2004年6月撮影
トイレを正面から見るとこのようになっている。そう思って見ると、いかにも切り取られた、って感じがする。田舎のバス停の待合所のような感じもするが・・、公衆便所である。


そういえば、一つ疑問がある。脇ヶ畑小学校と多賀中学校脇ヶ畑分校と役場支所の位置関係である。現在この地を訪れると、集落の中央を走る道の『杉』方面寄りの道の脇に「脇ヶ畑小学校跡」という石碑と、その建物の一部だったと思われるトイレが空き地に残っている。しかし「脇ヶ畑史話」の写真を見ると、このトイレと続きとなっている建物の写真は中学校と紹介されている。さらに先日訪れた「多賀町立博物館」の〜多賀の昔写真展〜では、同じ建物の写真が役場・郵便局と紹介されている。「脇ヶ畑史話」に掲載されている役場建物写真は、またそれとは違った外観の建物となっている。一体何が何なのか・・。そこで以前、多賀中学校脇ヶ畑分校で教鞭を取っておられた方に失礼を承知で突然の電話で伺ってみたところ、「あの石碑は誤りである」「石碑のあった所は中学校があった所である」「小学校は少し奥まったところの高台にあったが、今はその跡もだいぶ削られて整地されてしまっている」「役場はもっと五僧よりにあった」ということをうかがうことができた。これだと疑問のつじつまが合う。嫌な顔一つせず(見えたわけではないが)に教えていただいた、昭和39年より4年間、つまり閉校の1年前まで分校で教師をされていたその方にひたすら感謝である。

話をまとめてみると、つまり現在、小学校跡となっているところは実は中学校が建っていたのである。そして小学校はそれよりも少し五僧よりで奥の方にあったのである。これで位置関係はほぼ判明した。それでは私が1992年に撮影した木造二階建ての大きな建物は一体??外観から見ると中学校ではない。では小学校なのか・・。私はずっとその写真を石碑のある所の建物(つまり中学校)と思い込んでいた。しかし2枚の写真は方向の違いがあっても入り口の形状などを見ると同じものとは思えない。私の勘違いなのだろうか・・。暖かくなったら現地を訪れて、現地の方にも伺いながらもう一度確かめてみようと思っている。
    
※役場については、公開直前にHEYANEKO様より情報をいただき、道をはさんで照西寺の向かい側にあったことが判明しました。ありがとうございました。取り壊される直前に撮影された貴重な写真がHEYANEKO様のサイト『HEYANEKOの旅心のページ:廃村探訪記』にて公開されていますので是非ご覧ください。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
多賀中学校脇ヶ畑村分校と思われる。分校校舎は昭和26年に新築され独立校舎となっている。非常に立派な木造の建物である。建物の壁面から出ている三角状の支えのようなものは、他の木造校舎でもけっこう見ることができる。何の役割を果たしていたのだろうか・・。左手に見える小さな棟続きの建物だけが上の写真にある、現在残されているトイレだ。


1992年8月撮影
それではこの建物はなんだろう?これにも同じような三角状の支えが側面から出ている。中学校と同じような造りでありながら、出入り口の位置が違っているので、別の建物であることはわかる。また、役場支所でもない。それでは、これが小学校なのか・・。もっときちんと撮影しておけばよかった、と後悔してももう遅いのである。入り口のところにはなぜか洗濯機が置かれている。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
講堂・室内体育場。校内の二階にあったそうだ。足踏みオルガンや手前の長椅子の下にはスキー板も見られる。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
これでは判別しにくいが、石膏像の他にも、試薬ビンや乾電池、豆電球なども見えるという。美術室もしくは理科室か・・。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
校舎内の廊下。左端には教室内の黒板らしきものが見える。木造校舎は今ではほとんど見ることができなくなってきているが、なんとも温かみや優しさを感じる。私も小学校1年生の時は木造校舎であったが、2年生からは学校が分離して新たな鉄筋校舎となった。その時は鉄筋校舎がとても素晴らしく思えた。「木造校舎がいい!」なんて感じるようになるのは大人になってからなのだろう。


話を元に戻して、これまでの『保月』の人口の推移をみてみよう。

明治11年:戸数65、人口301人
明治44年:現住戸数63、本籍人口322人、現住人口254人
大正11年:現住世帯数58、本籍人口340人、現住人口273人
昭和11年:現住世帯数46、本籍人口368人、現住人口181人
昭和40年:世帯数28、男40人、女59人、計99人
昭和45年:世帯数16、男16人、女16人、計32人
昭和50年:世帯数16、男15人、女19人、計34人
昭和55年:世帯数12、男6人、女13人、計19人
昭和60年:世帯数6、男5人、女7人、計12人

上記の数字は全て多賀町史からの引用である。またこの項のTOPにある「昭和51年廃村」というのも多賀町史からのものである。昭和51年に廃村となっているにかかわらず、それ以降も居住者はおられるのは、どのような解釈をしたらよいのだろうか。行政的に居住者がゼロになったということなのだろうか。いまひとつ廃村の定義が明らかではない。いずれにしても現在の『保月』は冬季には無住となるものの、暖かくなると山仕事等で戻ってこられる、もしくは新たに建てられた家屋に戻ってこられる、という現状から考えると廃村ということばは当てはまらない。

この人口推移を見ていると、かつては家屋が65戸もあり300人以上の方が住んでおられたというのに驚く。これ以前のデーターがないので何ともいえないが、明治以前には間道として大いに利用されていたことからすると、この数字以上の賑わいがあったことも推測され、100人もの客を収容できる宿があったことも納得できる。伊勢神宮の「天照大神」の親神である「伊邪那岐命」と「伊耶那美命」の多賀大社、ここに訪れるために多くの参拝客が五僧越えのこの道を利用したことであろう。今は静かになってしまったこの地を訪れる際に、当時の状況を思い浮かべながら今の風景を見るのもなかなかのものではないだろうか。


2001年8月撮影
この荒れ放題となった空き地も、かつては家屋があったのだろう。65戸もの家屋、100人もの宿泊客を泊めることができた宿、最盛期の頃の『保月』の様子をタイムスリップしてみて見たいものだ。


2004年6月撮影
この建物は、かつては教職員の住宅として使われていたそうだ。学校とは目と鼻の先。車が通れる道ができるまでは、毎日この地に遠くから通勤するのは不可能ななことであった。車道ができてからも、あの道を通って毎日の勤務は大変だったことだろう。ここに住んで勤務する。生活も仕事も、この『保月』と一体化する。そんな感じだったのだろう。


2003年8月撮影
この家屋の手前には茅葺の大きな家があった。今はもう自然にかえり、草がのび放題となっている。初めてこの光景を見ても、ここに家屋があったことなどわかるはずもない。人が住まなくなった所はこうして自然にかえっていくだけだ。


人口、戸数の変化を見ると、同じ脇ヶ畑村の『杉』『五僧』は昭和40年あたりまでは戸数変化がほとんどなく、それ以降、急激に落ち込んでいるのに比べ、『保月』は明治以降ほぼ一定に減り続け、昭和20年代後半と昭和40年頃大きく減っている。『保月』は大集落だったゆえ、山林も耕地も所有しない家も多く、そういったところは時代とともに離村してゆく運命にあったようだ。山の生活で、持ち山のない買山製炭業では生活してゆくことはできなくなったのである。もちろん土地を持たないゆえ、縛られることなく身軽に動けた、ということも言えるだろうが・・。また、こういった山村地域に共通する燃料革命による大打撃に加えて、昭和43年度を持って小学校と中学校が閉校となり『保月』から教育の場がなくなってしまったことは、就学年齢もしくはそれ以下の年齢の子どもを抱える家庭にとっては離村の決定的な要因となったことは間違いない。そして残るのは高齢者のみとなる。当然人手が少なくなれば今までできていた畑仕事、山仕事、冬の雪対策なども以前のようにはできなくなってしまう。その結果、畑は荒れ、山の手入れも不足し、家屋も傷みやがては朽ち果て崩壊する運命となる。


2001年8月撮影
この風景だけを見ると廃村などというイメージはない。山道を走っていて、こういう風景に出くわすことも珍しいことではない。


2004年6月撮影
こうして残っている家屋に不法侵入をする輩が多いのか・・。そうだとしたら真に嘆かわしいことである。この白い車のボディにはには「パトロール中」という大きな文字が書かれていた。


2004年6月撮影
この時期から夏にかけては空き地は草で覆われてしまう。草の中に家屋が所々に見える、という感じだ。


2004年6月撮影
しかしお寺(照西寺)はいつもきれいに手入れされ、この日も紫陽花がきれいに咲いていた。先の八幡神社もそうであったが、故郷を大事にされている、という気持ちが強く伝わってくる。やはりこの地を訪れる多くの人が『保月』に好感を持つのは、こういったところからではないだろうか。


私は、ここ『保月』に1992年に初めて訪れて以来何度か来ているのだが、大部分が夏である。夏に来ると畑仕事をしている人、神社を掃除している人、小さな子どもを連れて散歩している人、山手で聞こえるエンジン音(チェーンソー?)など、必ず人の姿を見、そして人の気配を感じる。道から見える家屋にはカーテンがかかり、洗濯物が干されてあったり、庭先にはきれいに手入れされた花が咲いたりする、ごく普通の山村の風景である。さらに初めて訪れた時には木造校舎も残っていた。非常に美しかった。その印象が非常に強い。そのためこの地に「ふるさと」の風景を感じるのかもしれない。特に小さな子どもを連れた母親の姿を見るとそれを感じる。おそらくその母親も幼い頃はこの地で育ったのであろう。夏場はこの600mの地は、下界?に比べるとはるかに涼しい。そこで夏休みを過ごしに来たのだろうか。虫が鳴き、鳥がさえずり、獣の声も時にはきこえる。もちろん車なんてものは滅多に通らない。そのかわり山からは山仕事のチェーンソーのエンジン音や草刈機の音。コンビニやスーパーなど何もない。自動販売機もない。時折、私のような怪しげな?部外者がカメラを持って訪れたり、登山客が静かに通ってゆくだけ。冬季の命をも削るような厳しさとは対照的に、この季節はおだやかに、そして静かに時間はゆっくりと流れてゆくのである。


2004年6月撮影
照西寺から西方向(『杉』の方向)を見たところ。この正面の空き地に役場、そして高台にかつての脇ヶ畑小学校があったと思われる。


2003年8月撮影
この照西寺、歴史あるお寺のようで、創建は寛永元年(1748年)とある。もとは天台宗であったが真宗に改宗、そして1749年に西本願寺派に統一されたそうだ。『保月』自体が、美濃、伊勢、近江の人々の寄り合い集落と考えられており、したがって統一された信仰があったわけではなかった。真宗に改宗後も西に統一されるまでは西と東の対立による争いも絶えなかったという。


2004年6月撮影
照西寺の茅葺屋根も今はトタンで覆われている。照西寺については『脇ヶ畑史話』に詳しく書かれている。薄い冊子であるが、脇ヶ畑村について非常に貴重なことが、たくさん書かれている。多賀町立博物館で現在も販売中であるので、興味のある方は是非購入されてみてはいかがだろうか。


2004年6月撮影
柱に彫られた竜の彫刻。まさか創建時からのものではないだろうが、非常に歴史を感じる。照西寺を、そして『保月』を見守り続けてきているであろうこの竜、今のこの現状を見て何を思うのだろうか・・。


しかし、ここも時間の流れとともに少しずつ姿を変えてゆく。木造校舎や役場などは取り壊されて久しく、茅葺の家も少しずつ姿を消し、荒地、もしくは草の伸び放題の所も増えてきた。朽ち果て残骸をさらそうとしている家屋も多い。私の中では普段は美しいと感じる家屋の残骸なのに、それがなぜかここでは似合わない。違和感を感じてしまうのだ。なぜかというと、そこに人がいるからである。かたや朽ち果てる運命を待ち、かたや人の手が入り姿を保とうとしている。全く違った運命の二つが混在し、どう解釈すればよいのか迷ってしまう。この先、この集落はどのように姿を変えてゆくのだろうか。この近辺には多くの廃村、過疎の村が存在している。だがこの『保月』は他の村とは何か違っている。他の村はその立地条件から平地が少なく、木々に覆われ日照条件が極めて悪い。平地が少ないゆえ、畑もない。昼でも暗くじめじめしている。『保月』が、こういう地域にありがちな製炭業のみに依存していたのであれば、同じ運命をたどっていったことだろうが、他の集落に比べると平地が多く、そのためわずかながらではあるが畑作も可能であった、ということが他の集落と違った運命をたどっている要因なのだろうか。


2003年8月撮影
よりそうように集まっている家屋たち。寄せてくる草の勢いに負けずにがんばっているが、年々草の勢いは強くなり家屋たちを覆いつくそうとする。


2004年6月撮影
役目を終え疲れ果てたこの教職員住宅も、これからは急速に崩壊が進んで行くことだろう。この姿を見ることができるのもあと何年のことだろうか・・。迫り来る植物が自然への同化に誘いをかけてくる。


2003年8月撮影
教職員住宅の玄関。「先生、野菜持ってきたでいらんかぁー?」「すまんこっちゃなぁ、いつもありがとうなぁー」などという会話が聞こえてきそうだ。古き良き時代、と言ってしまったらそれまでだが、こういった密着型のふれあいは今の世の中ではもう考え難くなってしまっている。


『五僧』の項で述べた、関が原の戦いで敗れた鹿児島の武将の島津義弘に因んでの「関ヶ原踏破隊」だが、毎年はるか遠くの鹿児島県の伊集院町からこられて、当時と同じルートをたどって関ヶ原から五僧峠を越え多賀で一泊という行程で現在も実施されていることがわかった。踏破隊が開始された当初より諸事情で日数は減り、二日間となっているが、ちょうど多賀大社の万灯祭の日にあわせて行われているという。踏破隊は、お昼過ぎごろに五僧を越え、多賀の宿泊地には大体夕方の6時過ぎの到着になるそうだ。その日は昼食も抜きで歩きとおすという強行軍である。夜は、ゆっくりと万灯祭で旅の疲れを癒してもらおう、ということなのだろう。島津義弘の敗走の際は、保月の出身者が道案内を行なった。そして今も踏破隊が通る時は、保月の人たちが出迎え、励ます。『保月』がたとえ冬に無人化するとはいえ、集落として形を維持してゆく限りこの光景は続くことだろう。しかし雪に閉ざされる冬が過ぎるのを待って『保月』に戻ってこられる多くの方は高齢者である。5年後、10年後はどのように姿を変えていくのだろうか。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
茅葺民家の建ち並んでいた『保月』風景


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
冬の『保月』の茅葺民家の風景


いずれにしてもこの美しい集落、自然はそこを訪れる多くの人たちの記憶に残り、そして居住者にとっては大切な故郷として今後も残ってゆくことは間違いない。たとえ形が変わっても大切な故郷として・・。


梅雨の中、咲き誇る花たち・・
ここに人がいたことを、確かに物語ってくれる。
今は、少し咲きかたが乱れてはいるものの
かつては、多くの人々の目をなごませ
多くの子どもたちが競って描いたものだ。
主を失い、ともに並んでいた家屋もいつのまにか消え
自由に咲くようになって久しいこの花たち・・
あまり人の姿を見なくなったなぁ・・
などと感じることもなく、毎年咲き誇る。
もし、この花たちがさみしさを感じ、咲くことをやめてしまったら
保月はきっとさみしくなってしまう・・・



【参考資料】

多賀町史編纂委員会編集、多賀町公民館発行:「脇ヶ畑史話」
多賀町史編さん委員会編集、多賀町発行:「多賀町史下巻」「多賀町史別巻」
角川書店:「角川日本地名大辞典25滋賀県」
財)滋賀県文化体育振興事業団:季刊誌「湖国と文化」1991年発行 第56号


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