━滋賀県犬上郡多賀町━
昭和48年廃村


いつの日にか生まれし 故郷の花よ
主のあたたかい手につつまれ この地を故郷とし
温もりを受けて花ひらく
ありがとうとばかりに 彩りをかえし
まわりに咲かせた 多くの笑顔
季節とともに花ひらき 花を散らせて冬を越す
また春が来て いつものように咲かせた花も
彩りかえすも 笑顔は咲かず
次の春 また次の春 もう咲くことなきは笑顔の花
主をなくした花たちは 主をなくした家屋を彩り 故郷を彩る
この花の故郷は主の故郷
この花が語るは 故郷のあかし





『五僧』『保月』と続いた旧脇ヶ畑村のレポートの最後は、三集落の西端に位置する小集落『杉』である。その昔、五僧越えが近江と美濃、伊勢をむすぶ主要道の間道として多くの旅人に利用されていた頃から『杉』は、脇ヶ畑地区の近江側の玄関口にあたる集落として、戸数は多くはないものの栄え続けてきた。玄関口としての役割を担っていたことは『杉』を起点に四方に山道が残っていることからもよくわかる。カルスト台地のわずかな平地部ゆえ、600mもの標高、そして厳しい冬など決して生活に恵まれた環境があるわけでは無いが、特産の牛蒡などは京都に出荷され正月料理として大変重宝がられたという。製炭など自然を相手にしての収入で生きてゆける時代はそれなりに生活することができていたのだ。しかしながら時は流れ、昭和の燃料革命後、生きる糧を失った人たちの離村が急速に進み、歴史ある村も遂にはその歴史を閉じることとなってしまうのである。


2001年8月撮影
『保月』同様、村の真ん中を道が走る。峠を越えると突然『杉』の集落は 現れる。この写真では手前が『保月』方面となる。

2001年8月撮影
家屋の壁面に字名の表示がある。だが今はもうこの家屋自体が倒壊してしまい、見ることはできない。


2005年3月撮影
集落からは山道がいろんな方向にのびている。昔は生活道として集落間を行き来したり、山仕事での移動などで使われていたのだろう。


2005年4月撮影
パッと見ると家屋の原型を保ち、まだまだ家としての機能あるように見えるが、人が生活できる状態の家屋はほとんどない。


2004年6月撮影
近づいてみると雨戸や窓は破れてしまっている。雨水などで内部は想像以上にひどい状態なのだろう。


2005年3月撮影
上の写真と同じ家屋である。1年も経っていないのに天候や季節のせいなのか、随分と印象が違って見える。


2001年8月撮影
道沿いの茅葺の家屋だが、年々姿を変えている。この頃はまだ雨戸が残っていた。屋根の部分も茅葺の面影が残っている。


多賀町史には「昭和48年に廃村」という記述があるが、現実には先の『保月』同様、きれいに手入れされている家屋が一軒残っており、その状況から見るとその家屋には暖かい季節には住民が戻って来られているものと思われる。だがその集落全体の雰囲気は『杉』と『保月』とは随分と違っている。『保月』が神社やお寺の他、何軒かの家屋に人の温かみが多く感じられ、集落全体として廃村というイメージをあまり持たないのに対し、『杉』はいかにも廃村というイメージが強く感じられる。確かに一見、手入れされていると感じられる家屋も何軒かあるものの、よく見るともう窓ガラスもない状態であったり、壁板は破れ戸が開かれたままになっていたりする。そしてそれ以外の大部分の家屋はもっと荒廃が進んでおり、倒壊寸前で手の施しようのない状態であったり、屋根に穴があいて雨ざらしになっているなど、明らかにもう人の住めるような状態でないことがわかる。


2005年4月撮影
先日訪れた時の、上の写真の家屋の様子である。茅葺部分は完全になくなり、これだけを見ると茅葺家屋であったことなどわからない。何とか持ちこたえてはいるが完全倒壊まで時間の問題だろう。


2005年3月撮影
集落の奥にある大きな家屋である。持ち主の方が手入れされているものの、冬の自然の厳しさはそれをしのぎ容赦なく家屋を傷つける。


2001年8月撮影
集落奥の茅葺の家。4年前のこの頃はまだその美しい姿を見ることができた。手前にあるのは防火用水だろうか。


2005年3月撮影
上の写真と同じ家屋である。4年もの歳月は美しかった茅葺の家の姿をこのように変えてしまう。その間、4回の冬が訪れ茅葺屋根を押しつぶしてしまった。


お寺や神社なども既に移住先に移されており(「光明寺」は昭和52年に移転)、『保月』が今なお集落に寺社ともに残されて手入れされているのとは大きく違っている。人の集う場が『保月』にはまだ残されているのである。『杉』では、集落の真ん中あたりの広場の入り口に立てられた寺跡の横の木製の看板もほとんど字はかすれて消えかけており、ただ「立入禁止」「山林に無断で立ち入るべからず」と書かれた鉄製の看板のみが荒涼とした景観の中で目立っているのである。


2005年3月撮影
集落の中央部の広場である。立ち入り禁止の赤い看板が目立つ。どこの過疎集落でもそうだが、不法侵入や窃盗が後を絶たない。家屋を所有される方にとっては、廃墟ブームなど迷惑以外の何者でもないのだろう。


2004年6月撮影
村内に立ち入るのを禁ずる表示だ。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも写真撮影をさせてもらった。せめて迷惑のかからないように、という気持ちで・・。


そういえば、ここは他の集落以上にこのような禁止の看板が目立つ。これは脇ヶ畑地区の表玄関という性格上、不法投棄や不法な住居への侵入、窃盗の被害が遭いやすかったからなのだろうか。いずれにしても脇ヶ畑地区だけではなく、旧芹谷村の各地域の廃村、過疎の村の多くがこのような「犯罪」の被害を受けていることは紛れもない事実である。旧芹谷村の『甲頭倉』に至っては、その進入路に鉄製の立派なゲートができているが、家屋をそういった犯罪から守る為のやむを得ない手段だったのだろう。まことに嘆かわしく悲しく、そして腹立たしいことである。


2005年3月撮影
これは芹谷の集落『甲頭倉』へ向かう林道の入り口である。鉄製のゲートで完全に塞がれてしまっている。こうなってしまった経緯を考えると・・・。


ひとことだけボヤかしていただきたい。「お前のボヤきなど聞きたくないゾ。」と思われる方は、この部分をとばしていただければ、と思う。ことあるごとに書かせていただいているのだが、こういった廃村や廃墟などへの不法な侵入についてである。窃盗などは明らかに犯罪であるのだから、問題外であるのでここではふれない。 私は廃村や過疎の村で家屋やその集落のいろいろな風景の写真撮影をする。それらのものを美しく感じるから撮りたくなる。それらのものが貴重なものであるからせめて写真に残したくなる。撮りたいものの中には、できるだけ近づいて撮りたい、というものもある。しかし自分の中で「これだけはやめよう」というルールを作っている。公道から集落の様子や家屋を撮ることは問題ない。しかし写真撮影であろうとなかろうと、他人の所有の土地に無断で入ることは法にふれる行為である。建物内に無断で入る行為は、言わずもがなだ。


2005年4月撮影
かろうじて残る茅葺家屋の玄関部分。残るはもうこの壁面だけになってしまっている。あといくつの冬を越すことができるのだろう。


2005年3月撮影
その中には壊れて埃をかぶったソファー、それと長年雨水を吸い込み柔らかく崩れる練炭。


2005年3月撮影
玄関部に残された草履。柱が折れ、屋根が崩れ、そして瓦礫に埋まるのも時間の問題だ。


私の中での線引きとしては、廃村などで明らかに崩れ残骸化している家屋、そして扉や窓、壁などもなくなってしまっているような家屋などについては、外から見える範囲で写真撮影をさせてもらっている。ただ土足で家屋内に入り込んで残された家具の扉を開け中味を見たり、当時の住民の方のプライバシーに関するものをのぞき趣味的に撮影したり、などは決してしたくない。もちろん閉まっている戸や窓を開けて中に入ったり撮影したりなどは言語道断である。個人の家屋などの場合、基本的には自分がされて不快に感じるようなことは、決してしたくない。訪れた時にある状態のままを撮影し、元のままの状態でその場を去る、これが部外者のせめてものマナーだと考えている。ただ廃校など、個人のプライバシーなどの対象とならない場合は、自由に入れる状態の場合は中に入って撮影させてもらっていることもある。人それぞれ廃村などの探索時には線引きなどあると思うが、私はこれらのことを気をつけている。もちろんそれでも他人の土地に入っていることには違いない。もしそれで持ち主の方がこのサイトをご覧になった時にそのことを不快に感じられたなら、趣旨や状況を説明させていただこうと思う。しかしそれでも不快な気持ちをもたれるとしたら、その項の公開は控えようと考えている。


2005年3月撮影
久徳上石津線の入り口である『栗栖』の集落の芹川にかかる「飛ノ木橋」。この橋を渡った所に調宮神社がある。向こうに見える山の凹んだ部分、そこが杉坂峠である。


2005年3月撮影
芹川の横にある調宮神社。春には五穀豊穣(ほうじょう)を祈る「古例大祭」で、多賀大社より平安貴族姿の人や馬の行列が半日かけて往復する。


本題に戻ろう。『杉』の集落であるが、現在『杉』集落ならびに脇ヶ畑村へ行く道は県道の「久徳上石津線」が主道となっている。この他にも芹川上流の集落『河内・山女原』もしくは犬上川上流の集落『大君ヶ畑』から権現谷林道に入って『五僧』あたりで久徳上石津線に合流するというルートもあるが、いずれも道は極狭路で落石や崩落などで道が荒れていることが多い。江戸時代から利用されてきた五僧越え(島津越え)の道は杉坂峠より『八重練』に向かう山道で、現在の主道が『栗栖』へ向かっているのとは少し違っている。この久徳上石津線は、大正の頃から計画されていたものの、郡費だけで工事をまかなうのが難しく、昭和に入ってようやく県道に認定され改修工事されたものである。計画の当初は五僧越え同様『八重練』や『四手』と結ぶ案もあったようであるが、最終的には芹谷の多賀榑ヶ畑線とを結ぶ現在の形となっている。しかし今なお県道とはいえ斜面を九十九折に上る道は極めて狭く、車のすれ違いも困難で、冬場には雪で通行できなくなる期間も長い。


2005年3月撮影
神社にある石碑に書かれたこの神社の由緒。4月に行われる「古例大祭」についても書かれている。


久徳上石津線の道の入り口にあたる集落『栗栖』の芹川を渡ったところに調宮神社という神社がある。ここの石碑に「神代の昔、伊邪那岐大神は杉坂山にご降臨なされ、次いでこの栗栖の里にて暫くお休みになられたことが當社の創祀とされる。のち多賀の宮にお鎮まりになった大神は・・」とあるよう、この地は昔からの由緒ある地のようである。『保月』の項でもふれたが、多賀大社の「伊邪那岐命」と「伊耶那美命」は伊勢神宮の「天照大神」の親神である。その伊邪那岐大神が降臨された地、お休みになられた地ということだそうだ。


2005年4月撮影
杉坂峠。ここに御神木がある。ご覧のようにここにいたる道は非常に狭く、対向車が来ようものなら待避所まで延々と下がることになる。細い道の苦手な方は十分な覚悟を持って入ることが必要だ。


2005年3月撮影
杉坂峠には御神木の石碑と御神木について書かれた看板がある。『杉』の住民が古くから護り続けた地だ。


この調宮神社前の橋「飛ノ木橋」から道を上ってゆくと4km程で杉坂峠に着く。下界の集落や琵琶湖が見下ろせる大変景観の良いところである。そこには御神木がありその横に御神木の由来を説明した看板が立っている。この御神木も大変由緒あるものということがわかる。


2005年3月撮影
御神木の説明書きである。


神様が食事に使った箸を地面につきさされ、それが芽を吹き御神木になったなど、なんともいい感じではないか。なんとなくこの地に立つとその情景が目に浮かんできたりするのは私だけなのだろうか。琵琶湖の景色を見ながら弁当を食べて割り箸をつきさしてみようかな、など思ってみたがコンビニ弁当では絵にならないし、ゴミを作るだけなのでやめておくことにした。ちなみに杉坂峠ならびに御神木は、その場に行かなくても麓の道入り口の飛ノ木橋あたりから鈴鹿の山方向に見ることができる。


2005年3月撮影
峠からはご覧のような素晴らしい景観が広がる。天気が良ければ琵琶湖も広く見ることができる。


2005年3月撮影
地蔵峠にある祠。ここにも見事な杉がある。そして祠にはこの日も真新しい花が供えられていた。

2001年8月撮影
祠をまもるかのように3本の大杉がまっすぐに天にのびる。その枝の広がる様は見事である。


この杉坂峠を下り、また上る。すると800m程で『杉』の集落に着く。ちなみに『杉』から3km程でお地蔵さんの祠がある地蔵峠に至り、そこから『保月』の集落までは700m程となる。この地蔵峠にもたいそう立派な杉の木がある。そして祠にはいつ行っても花が供えられている。一体誰がこのような所まで来て花を供えているのだろうか、などいつも感じてしまう。季節のいい時ならまだわかるが、まだまだ寒い雪の残る時期でもきれいにされているのだ。昔からこの地に住み、厳しい環境の中からもこの地から恩恵を受け生活し続けた人々の思いを感じる時である。それと同時に、いつまでこの祠に花が供えられ続けるのだろうか、なども考えてしまう。


2005年3月撮影
集落の広場横には光明寺がそこにあったことを示す碑がある。その姿はもう見ることはできないが、当時の姿は「脇ヶ畑史話」で見ることができる。


さて、この『杉』の集落であるが、「脇ヶ畑史話」には先に述べた「御神木を守る人々の子孫といわれる」と書かれている。正式な史料などが残っていないためこのような記述の仕方になっていると思われるが、距離や位置を考えても何の不自然さもない。古代の神の由緒ある御神木を守るという甚だ重要な任務に大変誇りを持ち、雨の日も雪の日もそれこそ命がけで御神木を守り続けてきた『杉』集落の人々の姿が目に浮かぶ。そしてそれは長らく受け継がれてきたことだろう。だが今の『杉』はもうその役割を終え、ただ荒涼とした風景を見せてくれるだけだ。『五僧』『保月』と道を岐阜県側から逆走してきた場合に、荒涼さをより強く感じてしまう。先にも述べたが『保月』には人の温かみを感じる家屋がいくつかあり、さらに道沿いにある寺や神社には季節になると手入れされ花がきれいに咲き誇る。そして人の声も多く聴くことができる。その余韻を持ったまま道を進み『杉』に至ってしまうと、人の温かみが過去のものになってしまうことの寂しさをより強く感じてしまうのである。


2004年6月撮影
現在、光明寺は人々の移住先に移されている。ある程度集団での移住が行われた場合、このように寺社が移されることはよく聞く話である。場所が変わっても人々の信仰は続く。


2005年4月撮影
光明寺跡から道を隔てて石段がある。写真ではわかりにくいが、道の右手に石段がある。


2005年4月撮影
石段を上ったところには小さな祠がある。中はもう移されているのか、閉ざされたままとなっている。


道沿いにあった寺「光明寺」はもう移転され、道向かいの石段を登ったところにある「春日神社」ももう祠の中は移されているようである。それでも移転先の光明寺では、毎年1月に字集会が行なわれているそうで、その時にはいくつかの移住先に散ってしまった人々が集まり、区長の選出や年中行事についての話し合いなどがされているそうである。人々の集いの場が『杉』の地から新たな移住場所に移されただけと考えると、寂しさなんてものは集落跡を通る何もしらない者の感傷にすぎないのかもしれない。


2005年3月撮影
厳しい冬を越そうとしている集落の家屋。奥に見えるのは蔵か・・。どちらもこの年の雪には負けることなく春を迎えることができた。


2005年3月撮影
奥の家屋は遠くから見ると立派なたたずまいを見せているのだが、実際は壁板がかなり破れ、もう人を受け入れる余裕は残ってはいない。


それでは旧脇ヶ畑村の集落『五僧』『保月』同様、町史より人口の推移を見てみよう。

 明治11年:戸数18、人口74人
 明治44年:現住戸数15、本籍人口79人、現住人口55人
 大正11年:現住世帯数13、本籍人口67人、現住人口63人
 昭和11年:現住世帯数13、本籍人口72人、現住人口51人
 昭和40年:世帯数12、男22人、女27人、計49人
 昭和45年:世帯数8、男8人、女6人、計14人
 昭和50年:世帯数2、男2人、女2人、計4人
 昭和55年:世帯数3、男3人、女1人、計4人
 昭和60年:世帯数5、男5人、女1人、計6人

これをみると『五僧』同様、昔から小集落を維持し続け、世帯数の変化はあまりなかったことがわかる。しかし他のこのあたりの集落と同じく、燃料革命の影響が顕著に出始める昭和40年代から急速に人口が減少し、やがては廃村へといたってゆく。さらに『保月』にあった脇ヶ畑小学校ならびに多賀中学校脇ヶ畑分校が昭和43年に閉校になり教育の場が地域からなくなってしまったことは、小さな子どものある家庭にとって村を離れる決定的要因となったことだろう。昭和50年、60年に世帯数が増えているが、それがどういうことを意味しているのかは現状ではわからない。ただ2005年春現在、私が見た限り人が住める状況にある家屋は1戸であった。


2005年3月撮影
永らく壁面に『ここは多賀町、大字「杉」』の表示を見せてくれていたこの家屋も、この冬は厳しかったようである。つぎの冬の後にはどんな姿を見せようとしているのだろう。


2005年3月撮影
雪の残る雨模様の中の廃村。あまりにも寂しすぎる光景だ。もちろん下界には雪など全くない時期なのだが・・。


学校といえば、『保月』の項で脇ヶ畑小学校と多賀中学校脇ヶ畑分校の写真ならびに位置関係についての疑問があったが、このことについてその後のことを報告しておきたい。まず下の3枚の写真を見ていただきたい。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
建物中央の出入り口の形状、これは三角屋根である。


1992年8月撮影
この時は建物中央の入り口部に屋根など、玄関らしきものは全く見えない。それで上の写真とは違ったものとして認識してしまっていた。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
この写真も中央部の出入り口の形状は他の2枚とは違っている。しかしよくみるとそれ以外の屋根や窓、壁の様子などは他の2枚と全く同じものであるということがわかる。


上の2枚は『保月』の項と同じものである。そしてもう1枚は多賀町立博物館の「多賀のむかし写真展」でその後に公開されたものである。この写真をよく見ていただくとおわかりになると思うのだが、建物中央の入り口こそそれぞれ違っているが、それ以外の壁面や窓の様子は全く同じである。つまりこの建物は全て同じもの、道沿いに立てられていた多賀中学校脇ヶ畑分校である。現在の「脇ヶ畑小学校跡」の碑がある所である。何らかの理由で中央の玄関口は工事され形を変えたのだろう。雪の重みなどで痛んでしまったのかもしれない。そして最終的には、私の撮影した写真のように玄関の屋根そのものもなくなってしまっている。玄関口の形状が違っていた為に、違う建物であると思い込んでしまっていたわけである。


2005年4月撮影
中学校の奥の高台にある広場、そこには小学校があったことを示す、わずかばかりの跡が残っていた。


2005年4月撮影
校庭を囲む金網フェンス。3月に訪れた時はゆきに埋まり全く姿を見ることができなかった。


2005年4月撮影
建物(校舎)の基礎部。いったいこの小学校はどのようなたたずまいだったのだろう・・。


2005年4月撮影
これはトイレの跡なのだろう。非常に間隔が狭いのは小学校だからなのか。


2005年4月撮影
座部は既に腐ってしまったのだろう、丸太で代用されている。そして支柱部といえば、もう人を支える力は残っていないように思える。それでもブランコの形状は立派に残している。


そして小学校であるが、『保月』の項で書いた脇ヶ畑分校で以前に教鞭をとっておられた方の言われるとおり、中学校奥の高台にその跡を見ることができた。もちろん建物など一切残ってはいないが、建物の基礎や木製のブランコ、敷地周りの金網、そしてトイレと見られる跡など、今でも残っている。だが残念ながら、未だ小学校の校舎の写真などの当時の学校の様子はわからないままである。校庭内には多くの桜の木が残る。春の季節には、下界とは一足遅い桜の開花を味わいながら多くの小学生たちが通ったであろう。だがこの地で、もう子ども達の元気な声が響くことは二度とない。『五僧』『保月』『杉』というわずか3つの字で構成された脇ヶ畑村の歴史は既に閉じて久しく、今は当時のことを知る者のみ昔の面影を感じることができるのである。


井原耕造氏撮影:多賀町立博物館「多賀のむかしの写真展」より
どうだろう、この美しい『杉』の風景。1978年に撮影されたそうである。この時はもう既に廃村になっているとはいえ、雪の中の茅葺家屋の風景はあまりにも美しい。


2005年3月撮影
厳しい冬を地中で過ごし、もうすぐやってくる暖かい春にむけて準備完了!といった感じだろうか。


2005年3月撮影
だが桜はまだまだ先のようだ。春の日差しを静かに待つ・・。

2005年4月撮影
4月になって、ようやく桜のつぼみも赤くなってきた。山里の桜の開花は思いのほか遅く、訪れる者をやきもきさせる。その反面、予想外の桜の満開の姿に感動させられる。


季節の厳しさに耐えていた『杉』の家屋達。年々姿を変え、その多くは自然にかえろうとしている。ただ人の姿は見られなくなっても、季節になるといろいろな花が自然の中で新芽を出し、そしてたくましく咲き誇る。かつて自分達を植えてくれた主の手から離れたた色とりどりの花たち。荒涼とした中でもこの集落を彩る花たちの風景、これが新たな『杉』の姿なのかもしれない。


2001年8月撮影
廃屋をバックに花を咲かせる。次々と開花の準備をするつぼみ達。今でも訪れる人の心を癒す。


2005年4月撮影
地中で準備していた水仙たち。春の日差しを浴び、主のいなくなった村を彩る。その可憐さに思わず足を止める。


2001年8月撮影
主をなくしても咲き続ける花たち。そこに確かに人がいた、村があった・・そういうことをいつまでも語ってくれることだろう。この花達が植えられた時のこと、その映像が身勝手に頭に浮かぶ。


故郷の生まれ育った思い出の家屋
ゆがんで倒れようとするのを
なんとか食い止めようとするが
人が住まなくなった家屋の荒廃は
もう、限界を超えてしまっている。
あとは自然にまかせるだけなのかもしれない。
役目を終えようとしている家屋、
最後まで支え続けようとしてくれた主の思いとともに
自然にかえり、静かに眠るのみ



【参考資料】
多賀町史編纂委員会編集、多賀町公民館発行:「脇ヶ畑史話」
多賀町史編さん委員会編集、多賀町発行:「多賀町史下巻」「多賀町史別巻」
角川書店:「角川日本地名大辞典25滋賀県」


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