安楽越え


〜近江と伊勢をむすぶ歴史古き峠の林道〜


安楽林道(滋賀県甲賀郡土山町〜三重県亀山市)
訪問日:1995年8月、2000年7月


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通称『安楽越え』、滋賀と三重を結ぶ安楽林道による峠越えの道である。ここは私が始めて走ったダート路である。この写真撮影の数年前のことだ。その時は、安楽峠から滋賀県側に2〜3kmの未舗装路が残されていた。急に道が未舗装の道に変わったので「いけるのか?」という不安と土の道を走る妙に新鮮な気持ちが入り混じり、何ともワクワクしたのを覚えている。また峠付近には「カモシカ高原」という道標があり、美しい黄緑色の芝に、カモシカがウヨウヨしている美しい高原をイメージしてしまった。実際はそんな光景でないというのはわかってはいるのだが、なかなか夢のあるいい名前だと思いませんか? その後も何度か訪れたが、訪れる度にダート部が短くなり、2000年の訪問時には、ついに全てが舗装されてしまっていた。舗装だけではなく、第二名神高速道路の工事の関係で付近の景観は大きく様変わりしてしまっていた。それとともに起点付近の案内の道標も新しくなっていた。そこにあるこの峠のことを記した看板には以下のようなことが書かれている。原文のままである。


1995年8月か、2000年7月撮影
錆びた古い看板。安楽林道は三重県を流れる安楽川に沿って滋賀県に向かってのぼり、(安楽)峠を越えて滋賀の山女原へ至る。


『鈴鹿山脈を峠越えして、近江から伊勢国に至る道には、鈴鹿峠越え、安楽越え、小岐須越え、大河原越え等十の道があり、この内、安楽越えは、山女原から安楽峠を越え、三重県の亀山市の安楽川谷に出る道である。

かつて、鈴鹿の間道で通行する旅人も多かった。天正十一年(一五八三年)豊臣秀吉は、滝川一益を討伐のため、大軍を率いてこの道を通っている。また有名な俳人でもあり、歌人でもある松永貞徳の日記に「鈴鹿路は塞りて、安楽越えをせしに、あけび原という山中にとまりて、川音に夏の夜ながき旅ねかな」とある。山女原に泊まって安楽越えをしていることがわかる。

平成七年三月

土山町教育委員会』


1995年8月か、2000年7月撮影
どちらも新しいが、書かれてあることを読むとこの道が歴史ある道である、ということがわかる。


古くからの峠道や山奥深い山村には、歴史にまつわるエピソードがけっこうある。戦にまつわることも少なくなく、合戦に敗れた軍が瀕死の状態で敗走したとか、峠道を越えて敵の裏をつくことに成功しただとか、またその近辺の村に落ちのび、落ち武者の隠れ里になった、とか・・・。今はひっそりしている峠道であるが、その昔、多くの武者達が野望を持って戦いに向かう姿や、戦に敗れて命からがら落ちのびる姿、命尽きる姿など、様々な生死を賭けた姿を見てきているのだ。この峠道、安楽林道もそうである。いったいこの先どんなものを見るのだろう。


1995年8月か、2000年7月撮影
滋賀県の『山女原』集落。この道を行くと『安楽越え』だ。名神工事の始まる前のこの風景、今はもう違った風景になってしまっている。


1995年8月か、2000年7月撮影
標高はそんなに高くないがりっぱな峠の風景。かつてはいい雰囲気だったが、舗装されてしまった。今は第二名神の関係で大きく様変わりしてることだろう。


最後の2枚の写真は、安楽峠の未舗装時と舗装後の姿である。すっかりイメージが変わっていると感じるのは私だけだろうか。舗装されたことで車は通りやすくなったことだろう。しかしこれまでには来れなかったような車も訪れるようになる。こういう場所を狙ってくる輩もいる。悲しいかな、林道では不法投棄、放置自動車を見ることが多い。それらの行為を注意する看板も多く見られる。 実はこの舗装後の写真、私の車の横には2台の焼け焦げた車が放置されているのである・・・。


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