針川・尾羽梨
針川、尾羽梨 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
2005年11月撮影 |
滋賀県伊香郡余呉町。昭和29年に余呉村、片岡村、丹生村の三村が合併して生まれた(新)余呉村が昭和46年に町となり現在に至っている。その旧丹生村の最奥の集落として『針川』と『尾羽梨』は位置していた。今でこそ狭いながらも舗装路が『針川』を抜けて『半明』、そして北の『中河内』まで着いているが、それも廃村となってからのこと。廃村時はまだ舗装もされておらず、さらに道は『針川』で行き止まりで、そこから北へは細い山道しかなかったのである。今のように『中河内』〜『半明』〜『針川』という北からのルートは、徒歩限定という状態だったのだ。加えて電気が通ったのが昭和36年というから、廃村となるわずか9年前に、やっとこの地はランプ生活から抜け出せたという状態だった。それだけでも、如何に辺鄙な地にこの集落が位置していたかがご理解いただけるのではないか。そういう集落であるから、もちろん医者などいない。出産なども全て自宅で自らの手で行なう。冬場は豪雪のため車は使えず、病人が出れば戸板で担架を作り、村中の男たちが総出で道を踏み固め病人を運ぶ。村中といっても小集落ゆえ、成人男性の人数はしれている。その困難さは現在の我々の生活からは、決して想像できるものではないだろう。集団移転時の戸数は『針川』が14戸で世帯員数が72人、『尾羽梨』が10戸、35人だった。 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
『尾羽梨』住宅図 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
『針川』住宅図 |
三重〜岐阜〜滋賀〜福井の4県を南北に走るR365(通称:北国街道)。それの羽衣伝説で有名な余呉湖の少し北にある余呉町役場あたりから、美しき清流の高時川の流れとともにさかのぼるように東に山奥深く入り込んでいく道がある。『菅並』から『小原』『田戸』『鷲見』さらに『尾羽梨』『針川』『半明』の小集落を通って中河内に至り、再びR365に出合う道だ。昼なお暗い、山深い谷間を走る狭路である。途中『田戸』から分かれる道を東に折れて岐阜県境に向かって進むと、未舗装の悪路となって東の最奥の集落『奥川並』に至る。これらの道沿いの『小原』『田戸』『奥川並』『鷲見』『尾羽梨』『針川』の六集落は北丹生六ヶ字と呼ばれ、時期や理由は違うものの全てが廃村となっている。何百年もの集落としての歴史を終えて、今は静かに丹生ダムの湖底に沈む日を待つだけなのだ。 |
1998年8月撮影 |
1998年8月撮影 |
私がここを初めて訪れたのは1992年から93年にかけてである。その頃はまだ『小原』『田戸』『鷲見』の集落は廃村になっておらず、『針川』『尾羽梨』を訪れる途中の山村風景として美しい家屋の姿を見せてくれていたものだ。特に『鷲見』の、小さな川の両側に建ち並ぶ老家屋の姿は鮮烈で、今でも脳裏に強く焼きついている。今まで見た山村の風景の中で、私の中では文句なしにナンバーワンの風景である。世界遺産となっている白川郷の合掌造りが表の王者だとしたら、規模は違うが鷲見の集落は裏の王者である。そして私の中では、裏のほうがはるかに美しく切なく魅力的に感じられる。それだけに最初の訪問時、この美しい風景を写真におさめなかったことが本当に悔やまれてならない。住民が去り村が廃村になっても、まさかすぐに取り壊されてしまうなどとは思ってもいなかったのだ。本当に悔しい・・・のである。失ったものは二度とは帰ってくることはない。見たくても見ることはできない。わずかな救いが『八つ墓村』だ(このことについては『鷲見』の項をごらんください)。この映画の中で、実に美しい『鷲見』の集落の姿を見ることができるので、興味のある方は是非ご覧いただきたいと思う。 |
2005年11月撮影 |
2005年1月撮影 |
2005年6月撮影 |
2005年6月撮影 |
過疎の美しい集落『菅並』あたりから取り着けられたダム工事用の立派な舗装路は、やがて元来の山間狭路となり『小原』に至る。その間、3kmもないだろうか。さらに狭路を1.5km程で『田戸』に着く。美しかった山間の小さな集落も今は何も無く、ただ風に長くのびたススキの葉が揺れるだけだ。そこから『鷲見』までは3km余り。そして『鷲見』から高時川を2キロメートルほど上流に狭路を進むとようやく『尾羽梨』が、そしてさらに1キロメートルほどの所が『針川』となる。初めて訪れた時は、ともにいくつかの崩れかけた家屋や多くの残骸を見ることができたが、それも草がからみ覆われて、自然にかえるのをただ待つだけという状態であった。 |
1993年9月撮影 |
2005年11月撮影 |
1993年9月撮影 |
1993年9月撮影 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
昭和44年の最奥の村『奥川並』の離村に続いて、『針川』は昭和45年、『尾羽梨』は翌46年にそれぞれ集団離村の道を選んでいる。山奥深い山村の生活の糧といえば、言うまでもなく製炭である。製炭は何百年もの間、山の人々の生活を支えて続けてきた。しかし戦後のエネルギー革命によって、山で炭を焼く人たちは次々と姿を消すこととなった。燃料の主役が安価な石油にとって代わり、炭はもう見向きもされなくなってしまったからだ。山深い山村の唯一とも言える生活の糧を奪うことになってしまったのである。もともと田畑を営むのに十分な平地や日照時間などあるはずもない山奥。さらに豪雪など厳しく劣悪な自然条件。そこで製炭という生活の糧を失ったらどういうことになるのか、結果は明白である。 |
1993年9月撮影 |
1991年以降の撮影(中谷幸子さん所蔵) |
中谷幸子さん所蔵 |
1993年9月撮影 |
先にも述べたように『針川』『尾羽梨』とも小集落である。そして二つの集落は1km程の近い距離に位置していた。子どもたちは1〜4年生までは『尾羽梨』にあった丹生小学校尾羽梨分校に通う。そして小学校高学年と中学校2年生までは小原分校に通う。先の空撮写真にも尾羽梨分校の姿が写っているが、私が初めて訪れた92年には、もう崩れてしまっていたように記憶している。93年の写真にもその残骸らしきものがわずかに写っているが、今となってはそれが校舎なのかどうか調べることもできない。それより前に撮影されたと思われる中谷幸子さん所蔵の写真には、もう少し詳しく写っているのだが、残念ながら詳しい撮影日などはわからない。 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
2005年11月撮影 |
廃村後の尾羽梨分校に関しての校舎の写真、「もう見ることはできないだろう‥」と半ば諦めかけていた頃、このサイトをご覧になったkotaro様という方から実に貴重な情報をいただいた。何とその方は1985年にこの『尾羽梨』『針川』を訪問されたという。廃村から15年後、私が訪問する8年も前である。しかもその方は滋賀県の方ではなく、遠方よりこの地に訪れられたと言う。そういえば以前に、1988年の『小原』『田戸』の当時の写真の情報をいただいたルナルナ様も、遠方からこの湖北の山深い地に訪問された方であった。地元の人しか知らないような名も無い地の写真を、遠方の方が撮影されていたと言うのに、何か驚き以上に不思議で嬉しい感じがするのである。 |
1985年8月、kotaro様による撮影:カメラOLYMPUS OM-1、レンズZuiko28mmf3.5および50mmf1.8、フィルムKODAK TRY-X iso400 |
1985年8月、kotaro様による撮影:カメラOLYMPUS OM-1、レンズZuiko28mmf3.5および50mmf1.8、フィルムKODAK TRY-X iso400 |
1985年8月、kotaro様による撮影:カメラOLYMPUS OM-1、レンズZuiko28mmf3.5および50mmf1.8、フィルムKODAK TRY-X iso400 |
1985年8月、kotaro様による撮影:カメラOLYMPUS OM-1、レンズZuiko28mmf3.5および50mmf1.8、フィルムKODAK TRY-X iso400 |
1985年8月、kotaro様による撮影:カメラOLYMPUS OM-1、レンズZuiko28mmf3.5および50mmf1.8、フィルムKODAK TRY-X iso400 |
廃村を訪れると、朽ち果てた廃屋しかないのに墓地がきれいに手入れされている所がある。それもいつ訪れてもきれいな花が供えられているのだ。そういう所は廃墟となっても人間の温かい手を感じることができる。集落が消えても人の存在を感じることができる。この地で言えば『奥川並』がそれである。一方、それとは対照的に墓地など見当たらず、神社も荒れ放題で、全てが朽ち果て自然にかえろうとしている所もある。そこではもう人間の温かさを感じることは難しい。どちらがいいとか悪いとかという問題ではない。どちらであってもそこに住んでおられた方にとっては故郷、ということがなぜかせつなく感じてしまうだけなのだ。故郷を出ていく時の人々の思いを部外者の私が知るなど到底無理なことなのだろうが、思い出したくなる故郷、思い出したくない故郷、忘れ去られてしまった故郷、などいろいろあるのだろうということは、私でも感じることができるのである。 |
中谷幸子さん所蔵 |
中谷幸子さん所蔵 |
1993年9月撮影 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
中谷幸子さん所蔵 |
山奥の山村、山での仕事があるからこそ山に住む。それがなくなれば山を去る。もちろん御先祖様への思い、村への思い、仲間への思い、それらが消えることは無い。むしろ離村が近づけば近づく程、強くなっていくのかもしれない。しかし選択肢は他にはもうない。こんな厳しい辺鄙な地に生活することなどできない時代となったのだ。 |
半明を越えると、思ったより早くその集落は現れた。 |
【参考資料】 |
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■e−konの道をゆく■ |