半明・鷲見
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滋賀県の最北部に位置し福井県と隣接する伊香郡余呉町は、県下随一の豪雪地域である。栃ノ木峠を県境として南北に走るR365(北国街道)は、科学の発達した今の時代でも冬季には通行止めを余儀なくされる程なので、その昔はさぞかし大変な難所だったに違いない。峠にあったという茶屋はもうずっと以前に姿を消してしまっているが、今でも峠手前には民家が2軒残っている。隣の人里から遠く離れてポツンとあるこの老家屋、何百年もの歴史の証人としての威厳を保ちつつ、力尽きるまで峠を見守っていくことだろう。 |
「ふるさと中河内」より |
「ふるさと中河内」より |
2004年8月撮影 |
2004年8月撮影 |
2004年8月撮影 |
2004年8月撮影 |
この栃ノ木峠付近を源とし、山間部を縫うように流れてゆき、やがて琵琶湖に注ぐ一本の川がある。高時川である。峠を少し下った所にある表示では「淀川の源流」であるように記されているが、実際には琵琶湖に注ぐたくさんの川のうちの単に一本であることを考えると、ここが淀川の源流という意識は滋賀に住む者としてはなかなか持ちにくい。ただここから染み出た一滴の水が、やがては大阪湾までたどり着くということを考えると、源流というイメージも沸きやすくなるのかもしれない。 |
2004年8月撮影 |
2004年8月撮影 |
まあ、それはどうでもいいことであるが、峠から南下し、R365(北国街道)の東側の山間部のわずかな隙間を縫うようにして、この高時川は流れている。その昔、川と山との間のわずかな山腹のスペースに、良質の木や山の幸を求め人々が足を踏み入れ、踏まれることによって道が生まれた。そしてその道に沿って生活の場ができ、いくつかの集落が生まれてきた。山の幸と川の幸を生活の糧として生きてきたこれらの集落は、その後何百年もの歴史を作ってきたが、昭和の高度経済成長期になって突如次々と姿を消してゆき、更にその後のダム建設計画によって残った集落も姿を消していくこととなった。結果、この地域には今はわずかな集落が残るのみとなっている。今では林業関係や釣師、登山客くらいしか訪れることがなくなったこの地、空が極めて狭く日照時間の限られたこれら谷間の地域に、かつていくつかの集落が存在し、人々の生活で賑わっていた時代があったのである。 |
2005年6月撮影 |
2005年6月撮影 |
この地域の集落、南からみると『菅並』『小原』『田戸』『奥川並』『鷲見』『尾羽梨』『針川』『半明』そしてR365との合流地点である『中河内』となる。これらのうち『菅並』と『中河内』以外はすでに廃村となっており、もうその姿を見ることはできない。かつて人々の生活のあったその地の多くは自然にかえりつつあり、今は土と同化したかのような家屋の残骸、苔むした石垣や石段、そして電柱などが見られるだけとなっている。 |
2005年6月撮影 |
2005年1月撮影 |
別項で取り上げた『奥川並』『尾羽梨』『針川』の3集落は、昭和44〜46年にかけて、生活条件の厳しさと先の見えない集落の未来に見切りをつけて集団移住(必ずしも同じ地域への移住をしたわけではない)を決意し、相次いで離村、そして廃村となった。一方、ここで取り上げた『半明』『鷲見』そして『田戸』『小原』は、平成になってからの離村である。もちろん生活条件の厳しさによる過疎化は先の3集落と同様であっただろうが、集団離村の直接の原因は異なっており、そのため分けて掲載させていただくことにした。ただ『鷲見』をはじめとしていずれの集落も、先の3集落の集団移住当時、これに続く集団移住の計画としてあがっていたものの、町の資金不足などもあり、結局は思うように進まず計画は中止となってしまったという経緯がある。 |
1993年9月撮影 |
1993年9月撮影 |
『半明』『鷲見』『田戸』『小原』の離村。それは「ダム建設」のためである。近畿最大規模の丹生(にう)ダムの建設計画による集団離村だった。同じようにダム建設の際に水没する運命にあった岐阜県の徳山村の時に「ダムが村をつぶすんじゃない、つぶれる村にダムが来ただけだ」というような意味の言葉を聞いたことがある。もちろん規模が違うし、それぞれの取り巻く環境や諸事情の違いもあるだろうが、このことばそのものは「ダムで水没する村」を考えるたびに、どっちだったんだろうといつも思い出してしまう。 |
2006年9月撮影 |
2006年6月撮影 |
2006年10月撮影 |
この地域の場合がどうだったのかはわからない。しかし少なくともここで生まれ、長年すごして高齢になられた方が「何があっても村に残りたい。どんな不便でも残りたい。ここで一生を終えたい。」という思いを持つのは自然の流れではないかと思う。そこで生を受け幼い頃を両親とすごし、やがて成人となって家族を持つようになり、そして子どもが生まれ自分が親としてすごす。それら全てをすごしてきた故郷の地なのに、年月が流れ己の人生が残り少なくなった時、突如住み慣れた家を出ざるを得なくなる。土地を離れざるを得なくなる。多くの思い出、歴史がつまった老家屋、不便ながらも気がねのいらない住み心地のよい故郷。一生懸命にひたすら働き続けた時期が終わり、あとは故郷とともにのんびり過ごそう、そういう時に突如見知らぬ地に移らなければならなくなる。体が自由に動き、自ら目的を持って故郷を出るのであればそれもいいのだが、長年酷使してきた体、山の暮らしが染みついた身に、今さら違う暮らしなどできるはずは無い。そして何より先祖代々続いてきた地を自分の代で終わらせてしまうことの無念さ、申し訳なさが涌き出てわが心を責める。 ふるさとの地でわが人生を終えることを当たり前のこととしていた者の心情は、決してよそ者には理解できるものではないだろう。故郷を離れるということは世代によって、その思いは大きく違う。また故郷のその時の置かれた状況によっても大きく違う。ひとくくりで語れるものではない。しかし長年そこで暮らし続けた高齢者にとって、故郷を離れざるを得なくなる時の苦しさ、寂しさ、悲しさに満ちた心のうちは想像するに難くない。 |
2006年10月撮影 |
2006年10月撮影 |
2006年11月撮影 |
2006年8月撮影 |
2005年4月撮影 |
高時川上流の丹生ダム(計画当初の名称は高時川ダム)建設。当初の計画では、堤高145m、総貯水量1億5000万トン、総事業費1100億円と国内最大級で、平成12年に完成予定だったという。このダム建設により『半明』『鷲見』『田戸』『小原』の4集落は集団離村となり何百年という集落の歴史を閉じることとなった。ダムの是非については、私はわからない。しかし自然環境を大きく破壊していることは間違いない。現実にこのダム建設においても、イヌワシやクマタカが周辺に生息しており、その保護のため工事が一部休止されたりもしている。また水を溜めることで失われる自然も計り知れない。ダムを建設する以上、恩恵や利点は多くあるのだろうが、それが一部の人や企業などを潤わせるため、というのでは困るのである。ダム建設や自然破壊などの問題については簡単に語られるものではないだろうが、単純な私は、自然と共存してこそ人間は人間でいられる、と単純に考えている。そしてそのバランスが崩れた時、きっと人間は地球上の悪性腫瘍的存在になってしまうのだろうとも思う。 |
1998年8月撮影 |
1998年8月撮影 |
このダムは当初、京都、阪神、大阪などの淀川水系地域が水の利用者として名乗りを上げていた。しかしいずれもが時代の流れとともに相次いでこの事業からの撤退を表明する。これで大きな資金源を失った近畿最大規模の丹生ダム建設は迷走することになる。さらに国からのダム建設の目的の修正とともに大幅規模縮小の決定。さらに2006年7月にはダム建設推進の知事が落選し、凍結派の新知事が滋賀県に誕生する。この先、いったい丹生ダム建設はどのように展開してゆくのだろうか、先は見えない。この現状に、このダム建設のために移転された方たちの思いはいかなるものなのか・・。莫大な公費を使い、多くの自然を破壊し人々の生活の場を消し去ったダム計画。ダム堰堤建設予定地に今なお残るダムの概要が書かれたこの看板、ただただ虚しく感じてしまう。 |
『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
下の写真は『鷲見』の風景である。もちろん全ての家屋はとっくに取り壊されていて、当時を偲ぶものは石垣、電柱、そして鷲見川にかかる橋以外何もない。厳しい山奥の生活の中で大変重要な役目を持っていたであろう、村の中央を流れる鷲見川とそこに架かる小さな橋。その朽ちかけた小橋が、ありし日の生活の温かみをわずかに感じさせてくれる。鷲見川にかかる橋は4本あったというが、それも朽ち果て崩れるのももう時間の問題。家屋同様、人に使われなくなった橋は急速に朽ち、そして姿を消してゆくだけだ。 |
1998年8月撮影 |
1998年8月撮影 |
1998年8月撮影 |
1998年8月撮影 |
2005年5月撮影 |
2005年11月撮影 |
多くの山の集落がそうだったように、この『鷲見』も大部分が製炭を生業としていた。しかし燃料革命によって製炭で生活することができなくなり、若い世代の多くの人はこの地を離れてゆく。最終的に離村前の住民は40歳代〜70歳代がほとんどの、いわゆる‘子供のいない集落’となっている。また豪雪に見舞われる冬場になると多くの人が故郷を離れ、その時期を別の地ですごすようになる。最盛期には21戸100人以上もの人が住んでいたというが、今、この鷲見の地からは当時の様子を思い浮かべることは難しい。人口推移をみてみると、明治44年の戸数は21戸、人口127人。昭和30年に21戸、人口100人、昭和45年は18戸、人口73人。昭和50年になると15戸、人口48人と大きく減少する。そして平成3年には16戸、人口37人となる。いったん減った戸数がなぜ平成になって増えたのかはわからないが、実際は冬場は山を降りて暮らすという人も多く、離村直前の平成6年の冬をこの地で越したのは、わずか4戸だったということだ。 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
1992年だったと思う、奥川並や針川などに行く目的で初めてこの鷲見の集落を見た。鷲見川に沿って建ち並ぶ見事な茅葺き家屋(既にトタンで覆われていたが)は、今でも私の心に強く印象に残っている。こういう家屋はいくつも見ているが、川に沿って建ち並ぶこの風景は独特で、本当に美しく感じたものだ。いつでも撮影できるだろうとその時は写真撮影をしなかった。今となっては、なぜ写真に残しておかなかったのかと、悔やまれてならない。 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
17世紀の頃、この『鷲見』に疫病が流行った。村が全滅することを恐れた村人たちは、いったん村を離れ流浪の旅に出たという。そして数年後、再び村に帰ってきて『鷲見』の再興を果たした。先祖代々の地を守るためにやむを得ず村を離れたのだった。 |
『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。 |
2005年11月撮影 |
「ふるさと中河内」より |
2005年11月撮影 |
「ふるさと中河内」より |
2005年11月撮影 |
『半明』は、今回紹介の他の集落とは地域的に見ると少し違っている。『中河内』の枝村ということからもわかるように、かつては行政区分も片岡村(昭和29年に旧余呉村、片岡村、丹生村が合併し余呉村となる)であり、他の集落の丹生村とは違っていた。また学区も中河内小学校であった。今でこそ針川〜半明間は普通に車でいけるのだが、きちんとした道がついたのは針川の廃村後であり、それまでは『針川』『半明』それぞれが行き止まりの集落となっていたのである。移転後ダム関係工事が始まってからは『半明』以南、『菅並』以北の高時川沿いの狭路は、長らくの間通行止めとなっており、一般の車では行くことができなかった。現在も一応通行止めの表示はあるのだが、実際はダム関係の工事は行われておらず、釣り客や地元車など車の乗り入れは多い。 |
「ふるさと中河内」より |
2005年6月撮影 |
「ふるさと中河内」より |
2005年11月撮影 |
ここも『鷲見』同様に全ての家屋が取り壊されており、見るものは何もない。そういえば92年頃に針川や尾羽梨を訪問した際、半明の集落を通り過ぎた。その時、幼い子を抱っこして歩く母親の姿、そして幼い子ども何人かが楽しそうに遊ぶ姿を見た。そこの住民の方か、帰郷中の方なのかはわからない。しかし古びた家屋、山の緑一杯の風景に見事にマッチしていて、妙に「故郷」を感じ、心打たれたのを覚えている。その時ここがこのような状態になるとは思いもよらなかった。その時の情景と目の前にある荒廃した風景、このギャップはなかなか埋められそうにない。 |
2005年11月撮影 |
2005年11月撮影 |
今この地で見られる‘集落の跡’といえば、家屋の跡のコンクリート基礎、アスファルトの生活道、愛宕神社への石段、六体の地蔵様・・などだが、いずれも夏は雑草に覆われてしまい、注意してみないと通り過ぎてしまう。何も知らなければ、気づく者は少ないだろう。 |
『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。
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「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
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「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
『田戸』『小原』にいたっても、1992年頃に訪れた時の記録はもちろん記憶さえもほとんど無い状態だ。この頃は、すでに廃村となっていた『奥川並』や『針川』『尾羽梨』への関心が強く、この二つの集落は途中通り過ぎただけという状況だったということもある。わずかに『田戸』から『奥川並』に向かう橋と、その手前にある茅葺の集落の風景がおぼろげに残っているだけ。その橋がやけに派手な色だったように記憶しているのだが、今その橋を見てもそれは普通の白いガードレールの橋である。記憶違いだったのかもしれない。この『奥川並』への道は1847年に開かれたというが、その頃はもちろん人一人歩くのがやっとの山道で、大正2年に大八車の通れる六尺幅に拡幅されている。大幅に拡張されたのは昭和44年以降というから、すでに『奥川並』が廃村となって以降のことである。 |
2006年9月撮影 |
2005年6月撮影 |
2005年6月撮影 |
『田戸』はこじんまりとした集落で、明治の時代から戸数の推移はあまりない。明治44年に戸数15、人口76人。昭和30年の段階で戸数12、人口52人である。それが昭和45年には戸数8、人口31人、同50年には戸数8、人口25人となり、離村間近となる平成3年には戸数7、人口12人となっている。戸数の割りに人口の減少が多いのは、若い人たちが次々と村を離れていったからだろう。仕事がない、不便、過酷な自然、教育問題などなど、この山間のちいさな集落に若者たちが村にとどまれる要素は、もう残されていなかったのだ。 |
2005年10月撮影 |
2005年10月撮影 |
2005年10月撮影 |
あたり一面を茅が覆う『田戸』集落の跡。廃村となってまだ10年ちょっとなのに、ここに集落があったなど、知る者でなければわかりそうにない状態になっている。当時の記憶のない私にとって、この風景からかつての小さな山村風景をイメージすることは難しい。しかしここを「故郷」とする方たちには、この風景から、生活のあった風景が鮮やかに浮かんでくるはず。そしてそのイメージとともに当時のいろんなことも思い出されるはず。その瞬間、間違いなく故郷はよみがえっているのだ。思い出を持たない我々が見ても何もない風景、だがその中にも‘ふるさと’は間違いなく存在しているのである。 |
『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
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「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
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ダム堰堤の建設予定の地である『小原』も『田戸』同様小さな集落である。人口の推移は、明治44年に戸数14、人口76人。昭和30年で戸数11、人口48人である。それが昭和45年には戸数9、人口36人、同50年には戸数11、人口39人で、昭和50年までそれほど大幅な人口の減少はない。北丹生六ヶ字の中では一番南に位置し、他と比べて道路条件など恵まれた環境にあるからなのかもしれない。離村が近づく平成3年には戸数8、人口13人となっている。 |
2006年4月撮影 |
2005年6月撮影 |
2005年6月撮影 |
『小原』には丹生小学校小原分校があった。本校である丹生小学校は平成17年4月に丹生小学校、余呉小学校、片岡小学校の町内3校が統廃合されて新たな余呉小学校としてスタートしたため、残念ながら廃校となってしまっている。廃校後の校舎をどうするのかという見通しが立たず、一時期は取り壊しも視野に入れての検討がなされたようであるが、幸いにも第二の人生も決まり、美しい木造校舎は今も健在だ。黒木瞳さん主演のTVドラマの「二十四の瞳」のロケに使われたのも記憶に新しい。 |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より |
2006年4月撮影 |
2006年4月撮影 |
『小原』集落跡に今も残るものとして、集落内の生活道横にある共同井戸と半鐘がある。この共同井戸は山水を引いたもので、今でも当時と変わりなくきれいな水を湛えている。村ありし頃、きっと村の女たちが集って洗いものなどしたことだろう。しかしその当時の風景を思い浮かべてみても、今のこの風景とのギャップの大きさにただ戸惑ってしまうだけだ。 |
2006年4月撮影 |
2006年4月撮影 |
2006年4月撮影 |
2005年6月撮影 |
2005年6月撮影 |
一見ポストか何かに見えるこの半鐘の柱を初めて見た時、何なのかわからなかった。何もかも取り壊されたあとにポツンと残され、のび放題の雑草の中から顔を出すその姿は妙に愛嬌があり印象的に感じた。鐘はもうないものの、柱は今でも健在で、過去の『小原』の記憶のない私にとっては、今の『小原』の大事なシンボルとなっている。この先、何年残るのかはわからないが、なぜか応援したくなってしまう。 |
2006年4月撮影 |
2005年10月撮影 |
2006年4月撮影 |
2006年4月撮影 |
私の手元に離村当時の「びわこ放送」のニュースのビデオがある。そこには離村式(1995年11月)やその当時の集落風景などが映されている。琴で奏でられる「故郷」を、うつむいたままで聴く水没予定の4集落42世帯の住民たちの悲しげな表情、その姿は本当に痛々しい。誰も言葉を発することは無い。その胸中はいかなるものなのか‥。また移転先に大きな家が建てられたが、実際はそこに住む大部分の方は高齢となったお年寄り一人という厳しい現実も伝えられていた。あれから10年以上が過ぎた。その後、元住民の方々は移転地でどのように過ごされたのだろうか、など考えてしまうと本当に切なくなる。その人たちの失ったものの大きさは、当事者以外わかるものではないだろう。 |
1998年8月撮影 |
先にも書いたことだが、故郷を去るということは、その世代によって思いに大きな違いがある。若い者は仕事を求めて、未来を求めて自らそこを離れてゆく。小さな子供を持つ世代は、教育の場を求めて、子供の未来を考えて故郷をあとにする。そして残された高齢の世代の多くは、故郷とともに人生を共にすることを望み、先祖代々受け継いだ地を守ろうとする。これはある意味、一つの生き物としての本能に近いものがあるように思う。自らの命の終わりに近づいた時浮かぶのは我が故郷。そして母親、父親の在りし日の姿と幼かった頃の自分。これら望郷の念が故郷を守ろうという意思となり、自分自身もそこに同化することを望ませるのではないだろうか。 |
2005年6月撮影 |
2005年11月撮影 |
2005年6月撮影 |
2005年6月撮影 |
過疎、廃村となる原因は場所によって様々だ。しかし先祖代々続いた故郷の地を去る、自分たちの代でその歴史を消すことになる、ということへの無念の思いは、去る者誰しも感じるはず。しかしそれを上回る生活困難な状況が襲った時、人々はその地を去らざるを得なくなる。そうして人々が去っていった村と、好む好まざるに関わらず去らざるを得なくなった村がこの地域には混在している。この先ダムがどうなっていくのか、水没するのかしないのかはわからない。しかし、もうこの地に再び人々が住み、学校ができ、子どもたちの声でにぎわうことはない。そしてそこで消えて失われた文化・伝統などももう語られることも無く、消えてゆく。このことを「時代の流れ、そういう時代になっただけ」と言い切れるほどの自信は、今の時代を考えるとどうしても持つことはできない。どんなしっぺ返しを食らっても仕方がないような行為、そのようなことを今の時代は普通のこととして行なっている、そのように感じてならないのである。 |
2005年6月撮影 |
2005年6月撮影 |
命の川、高時川 |
水没予定ならびに昭和40年代半ばに相次いで姿を消したこれら集落の民俗や伝統については、ダム建設を機に『高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書/編集:余呉町教育委員会、建設省高時川ダム工事事務所』に詳細に渡ってまとめられている。消えゆくもの、失われゆくものとして記録されたのであろう大変貴重な資料である。当時の貴重な写真も数多く掲載されている。余呉町の図書館でも見ることができるので、関心のある方はぜひご覧になることをおすすめする。 |
【参考資料】 |
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