半明・鷲見
田戸・小原

半明、鷲見、田戸、小原
(滋賀県伊香郡余呉町)

1995年(平成7年離村)


自ら去る故郷、去らざるを得ない故郷
その思いは様々
楽しい日々、苦しい日々
母に甘えていたあの頃、父に叱られて泣いたあの頃
全てこの地に刻まれた多くの思い出
幼き目からの故郷は、幼い手をよろこぶ故郷に変わり
離れてゆく‥
命を育む豊かな自然、命をも奪う容赦なき自然
思い出したい故郷、思い出したくない故郷
どのような思いを持とうとも、もう、その故郷は存在しない
いつか帰りたいと思う時、もう故郷はそこにはない





滋賀県の最北部に位置し福井県と隣接する伊香郡余呉町は、県下随一の豪雪地域である。栃ノ木峠を県境として南北に走るR365(北国街道)は、科学の発達した今の時代でも冬季には通行止めを余儀なくされる程なので、その昔はさぞかし大変な難所だったに違いない。峠にあったという茶屋はもうずっと以前に姿を消してしまっているが、今でも峠手前には民家が2軒残っている。隣の人里から遠く離れてポツンとあるこの老家屋、何百年もの歴史の証人としての威厳を保ちつつ、力尽きるまで峠を見守っていくことだろう。


「ふるさと中河内」より
時代の詳細はわからないが、栃ノ木峠の風景。厳しい自然の中、何百年も峠を守ってきた老家屋たちだ。

「ふるさと中河内」より
実に美しい峠の茶屋。古くから、厳しい峠道をやってきた旅人の疲れを癒し続けてきたのだろう。


2004年8月撮影
現在の栃ノ木峠の風景。峠にあった家屋たちはとっくに姿を消し、道も立派な道に変わっている。

2004年8月撮影
しかし峠を少し滋賀県側に下った所には、今も2軒の民家が残る。


2004年8月撮影
栃ノ木峠のシンボルの栃の木の巨木。何百年も厳しい自然の中、峠を見守ってきた巨木は、今も健在だ。

2004年8月撮影
峠から福井県側を見ると、スキー場が見える。期間、時間限定ながらもスキーヤーズオンリーという、最近では数少ない貴重なスキー場である。


この栃ノ木峠付近を源とし、山間部を縫うように流れてゆき、やがて琵琶湖に注ぐ一本の川がある。高時川である。峠を少し下った所にある表示では「淀川の源流」であるように記されているが、実際には琵琶湖に注ぐたくさんの川のうちの単に一本であることを考えると、ここが淀川の源流という意識は滋賀に住む者としてはなかなか持ちにくい。ただここから染み出た一滴の水が、やがては大阪湾までたどり着くということを考えると、源流というイメージも沸きやすくなるのかもしれない。


2004年8月撮影
立派な碑が建っているが、数多く琵琶湖に注ぐ川の中で、なぜここを淀川の源とするのだろう。

2004年8月撮影
単に地図上で一番北側に位置するからそうするのだろうか‥。


まあ、それはどうでもいいことであるが、峠から南下し、R365(北国街道)の東側の山間部のわずかな隙間を縫うようにして、この高時川は流れている。その昔、川と山との間のわずかな山腹のスペースに、良質の木や山の幸を求め人々が足を踏み入れ、踏まれることによって道が生まれた。そしてその道に沿って生活の場ができ、いくつかの集落が生まれてきた。山の幸と川の幸を生活の糧として生きてきたこれらの集落は、その後何百年もの歴史を作ってきたが、昭和の高度経済成長期になって突如次々と姿を消してゆき、更にその後のダム建設計画によって残った集落も姿を消していくこととなった。結果、この地域には今はわずかな集落が残るのみとなっている。今では林業関係や釣師、登山客くらいしか訪れることがなくなったこの地、空が極めて狭く日照時間の限られたこれら谷間の地域に、かつていくつかの集落が存在し、人々の生活で賑わっていた時代があったのである。


2005年6月撮影
高時川上流。命の川として、古くから人々の生活を支えてきた。


2005年6月撮影
丹生渓谷として、今もシーズンになると訪れる釣り客は多い。


この地域の集落、南からみると『菅並』『小原』『田戸』『奥川並』『鷲見』『尾羽梨』『針川』『半明』そしてR365との合流地点である『中河内』となる。これらのうち『菅並』と『中河内』以外はすでに廃村となっており、もうその姿を見ることはできない。かつて人々の生活のあったその地の多くは自然にかえりつつあり、今は土と同化したかのような家屋の残骸、苔むした石垣や石段、そして電柱などが見られるだけとなっている。


2005年6月撮影
『中河内』の風景。北国街道の宿場町として歴史は古い。ここにあった中河内小学校は昭和60年に休校となり、その後平成10年に廃校となった。

2005年1月撮影
『菅並』の風景。北丹生の最北部の集落となる。集落の横にはダム建設工事用に新しい道路が走るが、今は通る工事車両も無い。


別項で取り上げた『奥川並』『尾羽梨』『針川』の3集落は、昭和44〜46年にかけて、生活条件の厳しさと先の見えない集落の未来に見切りをつけて集団移住(必ずしも同じ地域への移住をしたわけではない)を決意し、相次いで離村、そして廃村となった。一方、ここで取り上げた『半明』『鷲見』そして『田戸』『小原』は、平成になってからの離村である。もちろん生活条件の厳しさによる過疎化は先の3集落と同様であっただろうが、集団離村の直接の原因は異なっており、そのため分けて掲載させていただくことにした。ただ『鷲見』をはじめとしていずれの集落も、先の3集落の集団移住当時、これに続く集団移住の計画としてあがっていたものの、町の資金不足などもあり、結局は思うように進まず計画は中止となってしまったという経緯がある。


1993年9月撮影
昭和44年に廃村となった『奥川並』。私が訪れた時は廃村後24年も過ぎているにもかかわらず、何軒かの家屋が残っており、傷みはあるものの山仕事などで使われているようであった。

1993年9月撮影
翌昭和45年に廃村となった『針川』。家屋の傷みは『奥川並』よりひどく、きちんと形を残しているものはほとんどなかった。


『半明』『鷲見』『田戸』『小原』の離村。それは「ダム建設」のためである。近畿最大規模の丹生(にう)ダムの建設計画による集団離村だった。同じようにダム建設の際に水没する運命にあった岐阜県の徳山村の時に「ダムが村をつぶすんじゃない、つぶれる村にダムが来ただけだ」というような意味の言葉を聞いたことがある。もちろん規模が違うし、それぞれの取り巻く環境や諸事情の違いもあるだろうが、このことばそのものは「ダムで水没する村」を考えるたびに、どっちだったんだろうといつも思い出してしまう。


 

2006年9月撮影
岐阜県の旧徳山村のメイン通り。ここも今は既に水に沈んでおり、もう二度と見ることはできない風景となってしまっている。


2006年6月撮影
洪水調節、流水の正常な機能の維持、利水、発電などを目的とした巨大な徳山ダムは、巨額の金と一つの村、そして多くの自然と住民たちの心、ダム建設を利用して一儲けしようとする者たちの欲望、それらすべてをかき混ぜ、飲み込み、半世紀もの歳月をかけて2006年に完成した。

2006年10月撮影
ダムに貯められた水は小学校に迫ろうとしている。1年後、そして2年後、ここには全く違った風景が広がっている。そしてこの風景はもう二度と見ることができない。


この地域の場合がどうだったのかはわからない。しかし少なくともここで生まれ、長年すごして高齢になられた方が「何があっても村に残りたい。どんな不便でも残りたい。ここで一生を終えたい。」という思いを持つのは自然の流れではないかと思う。そこで生を受け幼い頃を両親とすごし、やがて成人となって家族を持つようになり、そして子どもが生まれ自分が親としてすごす。それら全てをすごしてきた故郷の地なのに、年月が流れ己の人生が残り少なくなった時、突如住み慣れた家を出ざるを得なくなる。土地を離れざるを得なくなる。多くの思い出、歴史がつまった老家屋、不便ながらも気がねのいらない住み心地のよい故郷。一生懸命にひたすら働き続けた時期が終わり、あとは故郷とともにのんびり過ごそう、そういう時に突如見知らぬ地に移らなければならなくなる。体が自由に動き、自ら目的を持って故郷を出るのであればそれもいいのだが、長年酷使してきた体、山の暮らしが染みついた身に、今さら違う暮らしなどできるはずは無い。そして何より先祖代々続いてきた地を自分の代で終わらせてしまうことの無念さ、申し訳なさが涌き出てわが心を責める。

ふるさとの地でわが人生を終えることを当たり前のこととしていた者の心情は、決してよそ者には理解できるものではないだろう。故郷を離れるということは世代によって、その思いは大きく違う。また故郷のその時の置かれた状況によっても大きく違う。ひとくくりで語れるものではない。しかし長年そこで暮らし続けた高齢者にとって、故郷を離れざるを得なくなる時の苦しさ、寂しさ、悲しさに満ちた心のうちは想像するに難くない。


2006年10月撮影
これは福井県の広野ダムの湖底に眠る『二ツ家』集落のふるさとの碑。

2006年10月撮影
訪れた日はダムの水位が下がっていた。集落の跡だろうか、それとも畑か何かだったのか、石垣が姿を現している。


2006年11月撮影
これは滋賀県の永源寺ダムの湖底。見えるのは‘樋ノ谷橋’。木製であるに関わらず、今なお立派に姿をとどめている。湖底でなければとっくに朽ち果てているだろう。橋上には分厚い泥が堆積していた。

2006年8月撮影
満々と水を湛えた石川県の手取川ダム。この湖底にもいくつかの集落が眠る。


 

2005年4月撮影
このように全国のダムには、湖底に消えた多くの故郷の碑が建てられている。しかし碑など建てられることもなく、忘れ去られてしまった集落も数多いことだろう。


高時川上流の丹生ダム(計画当初の名称は高時川ダム)建設。当初の計画では、堤高145m、総貯水量1億5000万トン、総事業費1100億円と国内最大級で、平成12年に完成予定だったという。このダム建設により『半明』『鷲見』『田戸』『小原』の4集落は集団離村となり何百年という集落の歴史を閉じることとなった。ダムの是非については、私はわからない。しかし自然環境を大きく破壊していることは間違いない。現実にこのダム建設においても、イヌワシやクマタカが周辺に生息しており、その保護のため工事が一部休止されたりもしている。また水を溜めることで失われる自然も計り知れない。ダムを建設する以上、恩恵や利点は多くあるのだろうが、それが一部の人や企業などを潤わせるため、というのでは困るのである。ダム建設や自然破壊などの問題については簡単に語られるものではないだろうが、単純な私は、自然と共存してこそ人間は人間でいられる、と単純に考えている。そしてそのバランスが崩れた時、きっと人間は地球上の悪性腫瘍的存在になってしまうのだろうとも思う。


1998年8月撮影
この看板に書かれているダムの概要と計画は、大きな変更を余儀なくされ、この先どう進んでゆくのか目途はたたない。


1998年8月撮影
規模縮小のまま建設されるとしたら、ダム湖の水位もこの図とは随分と違ったものになるのだろう。


このダムは当初、京都、阪神、大阪などの淀川水系地域が水の利用者として名乗りを上げていた。しかしいずれもが時代の流れとともに相次いでこの事業からの撤退を表明する。これで大きな資金源を失った近畿最大規模の丹生ダム建設は迷走することになる。さらに国からのダム建設の目的の修正とともに大幅規模縮小の決定。さらに2006年7月にはダム建設推進の知事が落選し、凍結派の新知事が滋賀県に誕生する。この先、いったい丹生ダム建設はどのように展開してゆくのだろうか、先は見えない。この現状に、このダム建設のために移転された方たちの思いはいかなるものなのか・・。莫大な公費を使い、多くの自然を破壊し人々の生活の場を消し去ったダム計画。ダム堰堤建設予定地に今なお残るダムの概要が書かれたこの看板、ただただ虚しく感じてしまう。




鷲見

『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
高時川に注ぐ鷲見川、そしてそれにかかる橋や川沿いに立ち並ぶ家屋の様子がよくわかる。叶わぬこととわかっていても、もう一度この美しい山村集落を見てみたいと思う。


下の写真は『鷲見』の風景である。もちろん全ての家屋はとっくに取り壊されていて、当時を偲ぶものは石垣、電柱、そして鷲見川にかかる橋以外何もない。厳しい山奥の生活の中で大変重要な役目を持っていたであろう、村の中央を流れる鷲見川とそこに架かる小さな橋。その朽ちかけた小橋が、ありし日の生活の温かみをわずかに感じさせてくれる。鷲見川にかかる橋は4本あったというが、それも朽ち果て崩れるのももう時間の問題。家屋同様、人に使われなくなった橋は急速に朽ち、そして姿を消してゆくだけだ。
何百年にもわたって村人たちに水を供給し続け、生活を支えてきた小さな川、その上にわずかに残る橋。老人、子ども、男、女・・多くの人たちが行き来したことだろう。川では女たちが洗い物をし生活のための水を汲む。米粒の残った米釜を川につけておくと川魚がつつきにきてきれいにしてくれる。1957年に簡易水道ができるまで、この小さな川は何百年にもわたって鷲見の人々の生活を支え続けた命の川だったのだ。しかしいずれもダムが完成すれば、朽ちた橋と命の川ともにダムの湖底に飲まれ、もう二度と姿を見せることは無い。


1998年8月撮影
廃村から3年たった『鷲見』の風景。川と橋、そしてそれに沿って立ち並ぶ家屋と電柱。これが『鷲見』の象徴的な風景。しかしこの時すでに家屋は取り壊され、跡形もなく姿を消していた。

1998年8月撮影
今とは違って、まだ雑草の高さや量もそれ程ではない。集落があったことも思わせる雰囲気がまだまだ残る風景だった。


1998年8月撮影
家屋同様、橋も人に使われなくなると傷みが早い。かつては人々の生活の中で欠かせぬものだったが、渡る人がいなくなって僅か3年でこのようになってしまった。

1998年8月撮影
人が消え、家屋が消えても石垣や石段は長く残る。そしていつまでもそこに生活があったことを語ってくれる。


2005年5月撮影
時の流れは風景を大きく変える。まだ5月だが、以前は見えていた道も雑草に覆われ、歩くことさえままならない状態となる。ただ流れる川はそのままだ。

2005年11月撮影
橋も木部のほとんどが朽ち果て、骨組みの鉄骨がむき出しになっている。もう橋とは呼べない。


多くの山の集落がそうだったように、この『鷲見』も大部分が製炭を生業としていた。しかし燃料革命によって製炭で生活することができなくなり、若い世代の多くの人はこの地を離れてゆく。最終的に離村前の住民は40歳代〜70歳代がほとんどの、いわゆる‘子供のいない集落’となっている。また豪雪に見舞われる冬場になると多くの人が故郷を離れ、その時期を別の地ですごすようになる。最盛期には21戸100人以上もの人が住んでいたというが、今、この鷲見の地からは当時の様子を思い浮かべることは難しい。人口推移をみてみると、明治44年の戸数は21戸、人口127人。昭和30年に21戸、人口100人、昭和45年は18戸、人口73人。昭和50年になると15戸、人口48人と大きく減少する。そして平成3年には16戸、人口37人となる。いったん減った戸数がなぜ平成になって増えたのかはわからないが、実際は冬場は山を降りて暮らすという人も多く、離村直前の平成6年の冬をこの地で越したのは、わずか4戸だったということだ。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
時代の詳細ははっきりしないが、最盛期の頃の『鷲見』集落。多くの茅葺家屋が建ち並んでいる。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
『鷲見』の冬期分校。分校といっても立派な校舎があるわけではない。しかしそんなこととは関係なく子供たちは元気にすごす。


1992年だったと思う、奥川並や針川などに行く目的で初めてこの鷲見の集落を見た。鷲見川に沿って建ち並ぶ見事な茅葺き家屋(既にトタンで覆われていたが)は、今でも私の心に強く印象に残っている。こういう家屋はいくつも見ているが、川に沿って建ち並ぶこの風景は独特で、本当に美しく感じたものだ。いつでも撮影できるだろうとその時は写真撮影をしなかった。今となっては、なぜ写真に残しておかなかったのかと、悔やまれてならない。
ふとした時、意外な時に『鷲見』の集落、それもトタンではなく、茅葺そのままの鷲見の集落を見ることができた。驚きだった。渥美清さんが金田一探偵を演じた映画『八つ墓村』である。多治見要蔵が32人殺しをするシーンで川べりに並ぶ見事な茅葺民家。どこかで見た風景・・・あ!鷲見!わ・し・み!!・・・だった、まぎれもなく。ちょうど開始から1時間を経過したあたりなので、興味のある人は一度ぜひご覧になることをお勧めする。やっぱり、美しい。本当に美しい。こうして映像に残っているのはやはり素晴らしく貴重だ。もう姿が見られなくなってしまった今、なおさらそう感じる。


2005年11月撮影
石垣とコンクリートの階段が残る。しかしここも暖かい時期には大量の雑草で覆われてしまい、近づけなくなってしまう。


2005年11月撮影
この時期になるとあたり一面が茅原となり、黄昏時になるとそれが黄金色に輝き、なんとも美しくなる。

2005年11月撮影
ここに人が住んでいた頃、どのような風景が広がっていたのだろう。


17世紀の頃、この『鷲見』に疫病が流行った。村が全滅することを恐れた村人たちは、いったん村を離れ流浪の旅に出たという。そして数年後、再び村に帰ってきて『鷲見』の再興を果たした。先祖代々の地を守るためにやむを得ず村を離れたのだった。
時は流れ平成の時代となり、再び村人たちは村を離れることになった。しかし人々はもう村に帰ってくることはなかった。いや、できなかったと言うべきなのか。そして先祖代々守ってきた土地から人が消え、歴史は閉じることになった。今『鷲見』に残る‘人の跡’も、やがては自然にかえってゆくことだろう。いや冷たい水の底に消えてしまうのかもしれない。現在、人が居なくなったこの地には一面に茅原が広がり、そしてその間を昔と変わることなく静かに‘命の川’鷲見川が流れている。




半明

『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。


2005年11月撮影
『中河内』の出郷である『半明』。今ある『半明』から『針川』へ向かう車道は、『針川』が廃村後に通じたものである。


「ふるさと中河内」より
撮影日などの詳細はわからない。『中河内』の小字『半明』も昔は30戸を有する集落であった。

2005年11月撮影
集落横を流れる高時川。川は生活を支える欠かせないものだ。


 「ふるさと中河内」より
建ち並ぶ茅葺家屋。昭和35年の大火以前の撮影と思われる。

2005年11月撮影
橋を渡って右側に家屋が建ち並んでいた。左に階段があり、そこを登ると愛宕神社があった。


『半明』は、今回紹介の他の集落とは地域的に見ると少し違っている。『中河内』の枝村ということからもわかるように、かつては行政区分も片岡村(昭和29年に旧余呉村、片岡村、丹生村が合併し余呉村となる)であり、他の集落の丹生村とは違っていた。また学区も中河内小学校であった。今でこそ針川〜半明間は普通に車でいけるのだが、きちんとした道がついたのは針川の廃村後であり、それまでは『針川』『半明』それぞれが行き止まりの集落となっていたのである。移転後ダム関係工事が始まってからは『半明』以南、『菅並』以北の高時川沿いの狭路は、長らくの間通行止めとなっており、一般の車では行くことができなかった。現在も一応通行止めの表示はあるのだが、実際はダム関係の工事は行われておらず、釣り客や地元車など車の乗り入れは多い。


 「ふるさと中河内」より
家並みを見ると、先の写真に比べるとかなり新しいことがわかる。昭和35年の大火で15軒中9軒が消失しているので、その後の撮影だと思われる。

2005年6月撮影
集落内の生活道。右手に高時川がある。雑草の中にも所々に、庭に植えられていたであろう植木が見られた。


 「ふるさと中河内」より
集落の高台にある愛宕神社。神社や寺は人々の心の拠り所であり、その存在は村をまとめる役目もになっていた。

2005年11月撮影
現在も神社への石段は残っている。神社は余呉町内に移されている。


ここも『鷲見』同様に全ての家屋が取り壊されており、見るものは何もない。そういえば92年頃に針川や尾羽梨を訪問した際、半明の集落を通り過ぎた。その時、幼い子を抱っこして歩く母親の姿、そして幼い子ども何人かが楽しそうに遊ぶ姿を見た。そこの住民の方か、帰郷中の方なのかはわからない。しかし古びた家屋、山の緑一杯の風景に見事にマッチしていて、妙に「故郷」を感じ、心打たれたのを覚えている。その時ここがこのような状態になるとは思いもよらなかった。その時の情景と目の前にある荒廃した風景、このギャップはなかなか埋められそうにない。


2005年11月撮影
神社跡に残る六体の地蔵様。人が去った後も静かに集落をまもっている。また地蔵様はいつも手入れされて、元の住民の方にやさしくまもられている。

2005年11月撮影
アスファルト道が不自然についているのは、そこに家屋があったことの証だ。この道も年々雑草に隠れ狭くなってゆくことだろう。


今この地で見られる‘集落の跡’といえば、家屋の跡のコンクリート基礎、アスファルトの生活道、愛宕神社への石段、六体の地蔵様・・などだが、いずれも夏は雑草に覆われてしまい、注意してみないと通り過ぎてしまう。何も知らなければ、気づく者は少ないだろう。
この地で育った者たちは、たとえ故郷がどんな形になろうとも、懐かしみ訪れることもあるだろう。しかしそれらの世代が訪れなくなる時、故郷の地を‘ふるさと’と思う者の存在がなくなる時‥もう『半明』の地が語られることはなくなり、ただ忘れ去られるだけになるのかもしれない。




田戸

『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
こじんまりした『田戸』の集落。空中からみると、『奥川並』へ向かう橋を渡った所に田んぼがあるのがよくわかる。しかし増水時には水没を免れられない悪条件だ。それでも僅かな平地を求めて作物を作る。


 「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
時代の詳細は不明であるが、かなり古いものと思われる。橋を渡った所から撮影されているようだ。


『田戸』『小原』にいたっても、1992年頃に訪れた時の記録はもちろん記憶さえもほとんど無い状態だ。この頃は、すでに廃村となっていた『奥川並』や『針川』『尾羽梨』への関心が強く、この二つの集落は途中通り過ぎただけという状況だったということもある。わずかに『田戸』から『奥川並』に向かう橋と、その手前にある茅葺の集落の風景がおぼろげに残っているだけ。その橋がやけに派手な色だったように記憶しているのだが、今その橋を見てもそれは普通の白いガードレールの橋である。記憶違いだったのかもしれない。この『奥川並』への道は1847年に開かれたというが、その頃はもちろん人一人歩くのがやっとの山道で、大正2年に大八車の通れる六尺幅に拡幅されている。大幅に拡張されたのは昭和44年以降というから、すでに『奥川並』が廃村となって以降のことである。
なお『田戸』から『鷲見』『尾羽梨』『針川』まで六尺幅の道が通ったのは大正末期頃で、自動車が通れる道に至っては昭和19年まで待たなくてはならない。
『田戸』には購買販売生産組合があり、日常品などを販売したり木炭などの生産物を外へ販売したりしていたという。食料や日用雑貨など通常はここで買い物を済ませることも多かったようだ。地理的にも丹生北部の中心に位置し、『奥川並』へと通じることからもこの地が選ばれたのだろうか。


2006年9月撮影
『奥川並』の林道から撮影した。この左手、川の左岸には田んぼがあったはず。今は植林された杉の木が見える。


2005年6月撮影
『田戸』側から見た『奥川並』への林道。ここは長きに渡って一班車両は通行止めとなっていた。

2005年6月撮影
現在は集落跡の裏を回るように林道が着けられている。林業用のものなのだろうか。


『田戸』はこじんまりとした集落で、明治の時代から戸数の推移はあまりない。明治44年に戸数15、人口76人。昭和30年の段階で戸数12、人口52人である。それが昭和45年には戸数8、人口31人、同50年には戸数8、人口25人となり、離村間近となる平成3年には戸数7、人口12人となっている。戸数の割りに人口の減少が多いのは、若い人たちが次々と村を離れていったからだろう。仕事がない、不便、過酷な自然、教育問題などなど、この山間のちいさな集落に若者たちが村にとどまれる要素は、もう残されていなかったのだ。
また日の出は遅く、午後4時には太陽が山影に隠れてしまうという、日照時間の非常に短い‘半日村’であるうえに、耕地となるような平地がほとんどなく、川沿いのわずかばかりの土地を耕して水田を営むという状況。もちろん実った稲も豪雨の時は水没する。そういう状況であるから、当然自給米の確保さえもできなかった。そういう中で燃料革命が襲う。林業、製炭に頼る集落で、林業や製炭で生計が立てられなくなった時どういう運命をたどるのか、多くの場合その選択肢は限られている。


2005年10月撮影
『鷲見』同様この地もこの季節になると茅原となり、秋の風に穂が揺らぎ音をたてる。風の音と混じるその音は、何とも寂しく響き続ける。

2005年10月撮影
手前が『奥川並』、右が『鷲見』、奥が廃村後につけられた林道。集落の面影はもうほとんど消えてしまっている。


2005年10月撮影
『田戸』の集落跡の美しい茅原。


あたり一面を茅が覆う『田戸』集落の跡。廃村となってまだ10年ちょっとなのに、ここに集落があったなど、知る者でなければわかりそうにない状態になっている。当時の記憶のない私にとって、この風景からかつての小さな山村風景をイメージすることは難しい。しかしここを「故郷」とする方たちには、この風景から、生活のあった風景が鮮やかに浮かんでくるはず。そしてそのイメージとともに当時のいろんなことも思い出されるはず。その瞬間、間違いなく故郷はよみがえっているのだ。思い出を持たない我々が見ても何もない風景、だがその中にも‘ふるさと’は間違いなく存在しているのである。




小原

『針川』にお住まいだった中谷幸子さんのお母さんが当時の住宅図を持っておられた。それをもとにして作った住宅図。


「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
空中からの『小原』の風景。右下にあるのは丹生小学校小原分校だ。集落の上のほうにも畑が作られているのがわかる。


 「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
これも撮影年などの詳細は不明だ。川向こうの集落に茅葺家屋が見える。


ダム堰堤の建設予定の地である『小原』も『田戸』同様小さな集落である。人口の推移は、明治44年に戸数14、人口76人。昭和30年で戸数11、人口48人である。それが昭和45年には戸数9、人口36人、同50年には戸数11、人口39人で、昭和50年までそれほど大幅な人口の減少はない。北丹生六ヶ字の中では一番南に位置し、他と比べて道路条件など恵まれた環境にあるからなのかもしれない。離村が近づく平成3年には戸数8、人口13人となっている。
『小原』も何度か通っているのだが、その光景は『田戸』以上に浮かんでこない。今ではこれだけ私の関心をひく丹生小学校小原分校も、訪問当時に間違いなく見ているはずなのに、全く当時の様子が浮かんでこない。催眠術で埋もれた記憶が掘り起こされるなら、間違いなくそうしてもらうのだが‥。


2006年4月撮影
4月に訪れたこの時は、まだ残雪があった。雑草に覆われることがないこの時期が一番集落の様子がよくわかる。


2005年6月撮影
右手がかつての『小原』の集落となる。奥へ行くと『菅波』へと至る。

2005年6月撮影
4月の風景とずいぶんと印象が違う。この時期になると集落の跡の多くは草に覆われてしまう。


『小原』には丹生小学校小原分校があった。本校である丹生小学校は平成17年4月に丹生小学校、余呉小学校、片岡小学校の町内3校が統廃合されて新たな余呉小学校としてスタートしたため、残念ながら廃校となってしまっている。廃校後の校舎をどうするのかという見通しが立たず、一時期は取り壊しも視野に入れての検討がなされたようであるが、幸いにも第二の人生も決まり、美しい木造校舎は今も健在だ。黒木瞳さん主演のTVドラマの「二十四の瞳」のロケに使われたのも記憶に新しい。
この丹生小学校には『菅並(S48年休校)』『小原(S54年休校)』『奥川並(S44年休校』『尾羽梨(S47年鷲見分校へ移転)』に分校があった。また『針川』には冬期のみ分校が開かれていた。小原分校は道が大きくカーブする所のちょうど下にあったが、現在は資材置き場となり夏は雑草で覆われてしまう。何か学校跡とわかるものがないのか見に行ったのだが、残念ながら何も見つけることができなかった。今から40年前頃には、山と清流に挟まれた山間の小さな学校に子供たちの声が響き渡っていたはずのこの地だが、今の風景からは当時の様子を思い浮かべることは難しい。唯一、写真で残された当時の子供たちの元気な様子のみが、私の中では小原分校のイメージとなり、この荒廃した風景に重なってゆく。


 「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
丹生小学校小原分校。昭和36年に増築され、旧校舎は寄宿舎に改造された。1階が屋内体育館、2階が教室になっている。

 「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
子供たちが着ている「デンチ」という防寒着がなんとも可愛らしい。


 「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
小原分校全景。広い土地のないこの地域、大きく道が曲がるその先の川との間に校舎と運動場がある。

 「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
運動会の玉入れ競技。山村の小さな運動会は村にとっても大きな一大行事だ。


 「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
玄関前で記念写真。山で育ったたくましき子供たちの元気な笑顔。


2006年4月撮影
分校跡の現在の様子。学校に関するものは見た限り何も残っていないように見えた。今は資材置き場となっているようである。

2006年4月撮影
本校である余呉町立丹生小学校。この丹生小学校、そして片岡小学校も現在は統廃合により廃校となっている。実に美しい木造校舎で、映画のロケなどでも使用された。その時も本校としての扱いだった。


『小原』集落跡に今も残るものとして、集落内の生活道横にある共同井戸と半鐘がある。この共同井戸は山水を引いたもので、今でも当時と変わりなくきれいな水を湛えている。村ありし頃、きっと村の女たちが集って洗いものなどしたことだろう。しかしその当時の風景を思い浮かべてみても、今のこの風景とのギャップの大きさにただ戸惑ってしまうだけだ。
今年の4月に訪れた時のこと、人がいなくなった残雪の残る『小原』の共同井戸に新たな住民の姿を見つけた。カエルかサンショウオの卵だ。その時はまだ井戸のきれいな冷水の中でじっとしているだけだったが、雪が解ける頃にはきっと小さな命たちでそのあたりは賑やかになったことだろう。その光景を思い浮かべると、この『小原』の荒廃した光景の寂しさも幾分消えてゆく。


2006年4月撮影
村の中央部にある半鐘と共同井戸。この時期でなければ、雑草に覆われてなかなか全景を見ることはできない。


2006年4月撮影
山水を引いて作られた共同井戸。今もそこには水が湛えられている。

2006年4月撮影
その脇の水溜りをよく見ると、両生類のものと思われる卵がある。夏には新たな住民で、このあたりもさぞ賑やかだったことだろう。


2005年6月撮影
共同井戸は3つの槽からできているようだ。ここで洗いものが日常的に行なわれていたのだろう。

2005年6月撮影
一番上の槽は深くて危険なのか、木で蓋をされている。


一見ポストか何かに見えるこの半鐘の柱を初めて見た時、何なのかわからなかった。何もかも取り壊されたあとにポツンと残され、のび放題の雑草の中から顔を出すその姿は妙に愛嬌があり印象的に感じた。鐘はもうないものの、柱は今でも健在で、過去の『小原』の記憶のない私にとっては、今の『小原』の大事なシンボルとなっている。この先、何年残るのかはわからないが、なぜか応援したくなってしまう。


2006年4月撮影
周りに雑草のないこの時期に全景を現した半鐘の支柱。

2005年10月撮影
草に覆われる時期は、この上部の所だけが顔を出す。一見ポストか何かに見える。


2006年4月撮影
集落の上の部分から見下ろす。夏はとてもではないが雑草で近寄ることができない。

2006年4月撮影
道をはさんで集落前を流れる高時川。この日は水が濁り、水量も多かった。命の川は、一歩間違えると集落を飲み込む怖ろしい川ともなる。




私の手元に離村当時の「びわこ放送」のニュースのビデオがある。そこには離村式(1995年11月)やその当時の集落風景などが映されている。琴で奏でられる「故郷」を、うつむいたままで聴く水没予定の4集落42世帯の住民たちの悲しげな表情、その姿は本当に痛々しい。誰も言葉を発することは無い。その胸中はいかなるものなのか‥。また移転先に大きな家が建てられたが、実際はそこに住む大部分の方は高齢となったお年寄り一人という厳しい現実も伝えられていた。あれから10年以上が過ぎた。その後、元住民の方々は移転地でどのように過ごされたのだろうか、など考えてしまうと本当に切なくなる。その人たちの失ったものの大きさは、当事者以外わかるものではないだろう。
ダム建設の時に必ずといっていいほど起こる居住者の立ち退き問題。多額の補償金を手に、自ら望んで故郷をあとにした人たちもいるだろう。それが悪いことなどとは思わない。むしろその人たちは移転によって幸せを掴んだのだからいいことなんだと思う。しかし全ての人が補償金で幸せを掴んでいると考えるのは、大いなる間違いだ。移転して補償金を得るか、補償金なしでもいいから残るのか、のどちらかを選ぶという選択肢があって補償金を選んだのなら何も問題ないのだろうが、ダム移転の際には立ち退き以外の選択肢のないのが現実なのである。
この時の「びわこ放送のニュース」の中の映像を見ると、その家屋の多くは既に取り壊されてしまって残骸となっている。所々にポツンと茅葺家屋などが残っているものの、ほとんどが更地となっており、それは集落の死を思わせる。消えゆく故郷の無残な光景は、居住を望む住民にとってあまりにも残酷であった。


1998年8月撮影
人が去った後、その地はゆっくり、時には急速に自然にかえろうとする。


先にも書いたことだが、故郷を去るということは、その世代によって思いに大きな違いがある。若い者は仕事を求めて、未来を求めて自らそこを離れてゆく。小さな子供を持つ世代は、教育の場を求めて、子供の未来を考えて故郷をあとにする。そして残された高齢の世代の多くは、故郷とともに人生を共にすることを望み、先祖代々受け継いだ地を守ろうとする。これはある意味、一つの生き物としての本能に近いものがあるように思う。自らの命の終わりに近づいた時浮かぶのは我が故郷。そして母親、父親の在りし日の姿と幼かった頃の自分。これら望郷の念が故郷を守ろうという意思となり、自分自身もそこに同化することを望ませるのではないだろうか。


2005年6月撮影
変わるもの、変わらぬもの、廃村などを訪れると多くのものを目にする。廃村を流れる川、まわりの様子は変わってしまったが、かつて人々の生活を支えたこの川の流れは今も変わることなくそのままだ。

2005年11月撮影
多くの命を支え、生み出す川の流れ。これを破壊してしまうことの意味の深さや痛みを忘れてはならない。


2005年6月撮影
自然の中のささいな美しさ。廃村などでは、それを特に感じることができる。

2005年6月撮影
人がいなくなってからも、この石段をゆっくり登り、地蔵様に会いに来る人たちがいる。人間がより自然に近づく時なのかもしれない。


過疎、廃村となる原因は場所によって様々だ。しかし先祖代々続いた故郷の地を去る、自分たちの代でその歴史を消すことになる、ということへの無念の思いは、去る者誰しも感じるはず。しかしそれを上回る生活困難な状況が襲った時、人々はその地を去らざるを得なくなる。そうして人々が去っていった村と、好む好まざるに関わらず去らざるを得なくなった村がこの地域には混在している。この先ダムがどうなっていくのか、水没するのかしないのかはわからない。しかし、もうこの地に再び人々が住み、学校ができ、子どもたちの声でにぎわうことはない。そしてそこで消えて失われた文化・伝統などももう語られることも無く、消えてゆく。このことを「時代の流れ、そういう時代になっただけ」と言い切れるほどの自信は、今の時代を考えるとどうしても持つことはできない。どんなしっぺ返しを食らっても仕方がないような行為、そのようなことを今の時代は普通のこととして行なっている、そのように感じてならないのである。


2005年6月撮影
廃村では陶器やガラス瓶、空き缶、釜‥などによく出合う。そこに生活があった確かな証。石垣や石段などより、より‘人間’を感じ、ホッとする。


2005年6月撮影
同じ‘人間’を感じるものでも、これから朽ち果て、消えようとしているものを見ると、また違った気持ちが静かに湧き出て、そして浸透する。


命の川、高時川
滋賀県と福井県との県境、栃の木峠を源とし、
街道沿いに南下した後に、山深き地を分け入り流れてゆく。
いつの時代からなのか、山の民たちの生活をささえ続け、
何百年にもわたって大切にされてきた。
迷走するダム計画、この先むかう道は未だ定まらず。





水没予定ならびに昭和40年代半ばに相次いで姿を消したこれら集落の民俗や伝統については、ダム建設を機に『高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書/編集:余呉町教育委員会、建設省高時川ダム工事事務所』に詳細に渡ってまとめられている。消えゆくもの、失われゆくものとして記録されたのであろう大変貴重な資料である。当時の貴重な写真も数多く掲載されている。余呉町の図書館でも見ることができるので、関心のある方はぜひご覧になることをおすすめする。
このように消えゆく伝統や文化、民俗などを記録に残すのは大変重要なことである。しかしあの美しく威厳ある家屋もダムに沈めるために取り壊してしまうのではなく、何とかしてきちんと保存して後世に伝えていこう、残していこう、何かの形で再利用しよう、などできなかったのだろうか。場所によっては郷土資料館や民族資料館などの形でこういった古民家が保存されている所もあるのだから、滋賀県もできないことではないと思うのだが、残念ながら逆方向に目が行っているような気がしてならない。次々ものが生まれ、消費され、役に立たなくなったものは放置され、捨てられる、こういう世の中だからこそ、失ったものを見る、失うものの価値を考える視点というのは大変重要なことだと感じる。


【参考資料】

●中日新聞「滋賀中日」
●記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)
●記念誌「ふるさと中河内」
(編集:ふるさと中河内編集委員会、発行:余呉町)
●高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書
(編集:余呉町教育委員会、建設省高時川ダム工事事務所)
●「近江の祭りと民族」
(著:宮畑巳年生、発行:ナカニシヤ出版)
●季刊誌「湖国と文化」1991年発行 春号・夏
(発行:財)滋賀県文化体育振興事業団)
●びわこ放送「BBCニュース」


地図へ 針川・尾羽梨へ→
■e−konの道をゆく■