★『小原谷』の道(小原谷〜椋川、通学)
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椋川谷の集落。椋川にはこのような小字となる小集落が谷にいくつか点在する。これだけを見ると広々として感じる。(2013年8月撮影)
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冒頭にも書いたが、集落『小原谷』は大字『椋川』の小字の集落だ。その『椋川]』は、小原谷の他に乾谷、崎原、堂前、明良谷(あからだに)、中山、笹ヶ谷、上自在坊、下自在坊などの小集落よりなっているが、その中で小原谷、上自在坊、下自在坊は昭和40年代に既に廃村となっている。実際に椋川谷を訪れてみるとけっこう広々した感じがするのだが、地形図で見ると、これらの大部分が山間部をクネクネ流れる寒風川の本流・支流の谷のわずかな平地に点在しており、平地の大変少ない山中にあることがよくわかる。中でも小原谷口より北側の、本流である北川に注ぐまでの谷は急峻で、わずかな平地さえ探すのが難しいくらいだ。今でこそ林道(寒風麻生林道)が通っているものの、永らく山道のままだったというのも納得できる。
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朽木の横谷へ抜ける林道の峠部より見た椋川谷の集落。こうして見ると大部分が山ということが、よくわかる。(2013年8月撮影)
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このようにまとまった平地の無い『椋川』も、今津中学校郷土研究クラブがまとめた『三谷郷土史』の「椋川調査報告(昭和38年)」では、明治初期には戸数75戸・人口400人の規模があったことが記されている。冬場に多くの積雪があるにかかわらず、このように多くの人々の生活が山深い中にあったのは、『椋川』が良質の炭を豊富に生産できる地だった、ということに尽きるのだろう。なお同書によると、1938年(昭和13)に戸数56戸・人口302人となっている。しかし既に3つの集落が地図から姿を消し、今現在も過疎高齢化が進む『椋川』は、2010年の調査では、戸数31戸・人口58名となっており、時代の荒波に飲み込まれた山間集落であることが数字からも読み取ることができるのである。
かつて今津西小学校椋川分校で教鞭をとられ、自らも椋川の小字『上自在坊』(廃村)のご出身で、現在は椋川の郷土史を研究されている澤田純三氏の著書「区誌・椋川」に、椋川(むくがわ)の名の由来が記されている。それによると、若狭の河内谷からも、朽木谷の麻生からも、谷筋を登りつめて尾根から目を凝らしても煙も見えない山の向こう側にある村、つまり周辺の河内、大杉、山中、保坂、麻生などの人たちがみな「山の向こうがわの村」としかいいようのなかったところから「むこうがわ」→「むくがわ」と呼ばれるようになったとある。今は車で苦もなく行けてしまう『椋川』だが、それでも車で走っていると、この地が山深い「むこうがわ」というのは体感できる。そういえば20年程前に初めて『小原谷』に訪れた時でさえ、周辺の道はもっと狭く、今とは道路状況がずいぶんと違っていたのを思い出す。
余談になるが、今回こうして安本信雄さんにお話をうかがえたのは、実は澤田純三氏の存在無くしてはあり得ないことだった。「区誌・椋川」を今津図書館で見つけて、ぜひ『自在坊』のお話をうかがいたいと氏に連絡を取ったところ、お忙しい中でも快諾していただき、そしてそのお話をうかがう中で「小原谷の教え子がおるよ。」ということで信雄さんをご紹介いただいたのだ。したがって『自在坊』の貴重なお話をうかがい、さらにこのような機会も作っていただいた澤田先生には、ただただ感謝の気持ちでいっぱいなのである。
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※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。
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上の地図は大正13年の地形図からのものだ。小さくて見にくいのだが、赤丸が『小原谷』で、3つの青丸が上から『保坂』『笹ヶ谷』『朽木市場』の各集落。それぞれへのルートをオレンジ色で示している。ご覧のように道や集落の周囲は全て山で、平地は僅か。この地図では途切れているが、小原谷から左にのびる道が、山越えで福井の『河内』へ抜けるルートである。主要道の位置は今と大きく変わらないが、今はもう廃道となっている『笹ヶ谷』から朽木麻生に抜ける搦谷ルートがけっこう太く描かれている。この頃はけっこう使われていた道であったが、『上自在坊』『下自在坊』の衰退とともに道も寂れ、やがて廃道へと変わっていったもの思われる。
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椋川の中心部の『笹ヶ谷』集落。実に美しい里山の風景が広がる。
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寒風麻生林道の小原谷口付近。この未舗装路を行くと『小原谷』だ。
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この奥深い自然の中にある大字『椋川』の中でも最も山深い最奥の集落が『小原谷』だ。それでは、安本さんの聞き取りから、道に関するところを記しておく。
まず椋川(笹ヶ谷)〜小原谷間の道だ。ここでいう椋川は、大字椋川の中で一番大きな字で村の中心とも言うべき『笹ヶ谷』のことで、字の中では一番大きくて戸数も多く、椋川分校もここにあった。今は国道367号線の椋川口から『笹ヶ谷』までは立派な道が着いており、道は多少細くはなるものの西側の最奥『乾谷』まで苦もなく車で行ける。一方、『笹ヶ谷』から分岐して北へ行く『小原谷』方面へと向かう道はというと、さらに分岐する小原谷口までは細く落石等はあるものの大きな問題は無い。しかし先述のように、この道は離村後につけられたもので、村在りし頃は今のような道ではなく、かろうじて軽トラ一台が通れるガタガタ道であった。イメージでいうと、今も当時の面影を残す小原谷口から集落跡へ向かう狭い未舗装路を、もう少し狭くしたような感じだったのだろうか。
下の2つの地図をご覧いただきたい。上のほうの地図は現在の小原谷〜笹ヶ谷間のもので、下は大正13年発行のものだ。2つを比べてみると、小原谷口から大きく南にカーブするあたりで、昔と今とではルートが違っているのがわかる。昔の道はもっと川沿いに道が着いている。
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※この地図データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです
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※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。
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「離村の時に何とか軽トラが入って仏壇を運ぶことができた。」というエピソードをうかがったが、実はこの道さえも着いたのはかなり新しく、それまでは耕耘機がやっと通れるくらいの幅しかなかった。『小原谷』の長い歴史の中でその大半は、人一人がやっと通れる程の山道が椋川とを繋ぐ唯一の道だったという厳しい道路事情がそこにはあったのである。
椋川周辺の道路事情に関して、先出の今津中学校郷土研究クラブの『「椋川調査報告(昭和38年)/三谷郷土史』の道に関しての部分を見てみると、明治23〜24年頃に若狭街道が修復されてからは、今津へ荷物を出す際には『保坂』で中継ぎする人を頼んで荷車で運んだことや、途中谷〜保坂間の道が悪いので、明治29年に椋川が主になって改良され、市場・熊川県道になったことがなどが書かれている。また、椋川の『笹ヶ谷』以西は、大正の初めに改良工事が行われてやっと荷車が通れる道になったとあり、その状況が大きく変わったのが昭和34年というから、長きに渡って厳しい道路状況にあったことがわかる。そして、同書ではふれられてはいなかったが、さらに僻地となる『小原谷』の道路状況については、言わずもがなといったところなのだろう。したがって、当時の人にとっても『小原谷』から『笹ヶ谷』まで出るのは、決して容易なことではなかったと思って間違いなく、特に冬場は積雪量の多いこの地域は大変だったことだろう。
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小原谷口から『小原谷』へと向かう道。昔の面影を残す谷の道だ。
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ちなみに小原谷口よりさらに北にのびて国道303号線(若狭街道/九里半街道)へと至る道は、大正13年の地形図でも破線で示されているが、今のような車の通れる林道となったのは離村後のことで、当時はなかった。今でも大変荒れているこの道は、落石や崩土で通行止めとなっていることが多く、自然環境の厳しさを強く感じる林道となっている。ながらく山道で終わっていたのも、そのあたりのことが原因となっていたのだろう。なお、この道の303号線と交わる起点から『笹ヶ谷』、そして『乾谷』を経て朽木の『横谷』までが、寒風麻生林道である。
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現在の、小原谷口以北の寒風麻生林道。道は大変荒れていて全線通行可能なのが稀なくらいだ。
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信雄さんご夫婦の、6年生と1年生の2人のお子さん(女の子)が分校に通っている頃の小原谷〜笹ヶ谷間の道は、先の地図でもわかるように、今の寒風林道のルートとは違ってもっと川の近くを通る道だった。クネクネ曲がったり登ったり下りたりで、約3kmの山道を1時間かけて通学した。朝は6時半から7時までには家を出る。隣家のお子さん(女の子)といっしょに子どもたちだけでの登校だ。しかし冬場はそうはいかない。雪の季節になると登校だけで半日近くもかかってしまうため学校に泊めてもらったという。その時は隣家の親や安本さんの祖母などが交代で学校へ行き、土曜日に迎えに行って連れて帰ってくる。それでも雪の多い日は、子どもは帰ってこず、保護者が着替えだけを持って帰ってきた。また、お子さんが女の子だったということもあるのだろう、隣のお子さんが学校を休まれる時は、椋川にある奥さんの親元に泊めてもらって、そこから登校するということもあったそうだ。これは昭和40年代後半の離村直前のことである。
それにしても山道の小さな女の子だけでの登校は、さぞかし心配だったことだろう。道は山道、時には熊も出る。しかし当時は、今の社会では何より恐ろしい存在となってしまった「人間」への心配をほとんどする必要がなかった。そのあたりに時代の違いを感じたりするのである。地形的に、外部から素性の知れない人間が入ってくることがほとんどなかったということもあったのだろうが、時代の変化と、何か歪んだ方向に進んで病んでしまっている現実を感じてならない。
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今津西小学校椋川分校。分校にしたらかなりの規模だ。長らくの休校の後、2008年(平成20)に閉校となった。(2008年3月撮影)
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それよりもう少し前の昭和30年代後半から40年代の通学の様子もうかがうことができた。お話ししてくれたのは、中学生まで『小原谷』で生活されていた方(男性)で、当時は『小原谷』からは、その方と弟さんと隣家のお子さんの3人の男の子が通学していた。小原谷での思い出のお話をうかがった時に一番に出てきたのが、「雪の日の登校が忘れられへんな」ということば。雪が積もると、3kmの椋川分校までの道のりを2時間かけての登校となる。親が先に歩いて雪を踏んで道をつくり、その後を子どもたちがついてゆく。しかし帰りは子どもたちだけとなる。雪がやんだ日はいいのだが、降り続けると朝歩いた道の形がなくなってしまい大変危険な状態になる。当時は電話も無い。そこで雪が多く降ってきた時は、先生たちも気をきかせて早めに帰らせてくれたそうだ。そういえば以前、椋川分校で教鞭をとられていた先生にお話をうかがった時、雪のひどい時の小原谷の子どもたちには「お前ら、もう帰れっちゅうて早う帰らしたんや。」「来るのも遅れるから、登校して服とか乾かしてらすぐに帰り支度になって・・」とおっしゃられていたのを思い出す。道中、雪崩が起こるような箇所もあったようだが、通るのが気温の下がる朝夕なので幸いにも遭遇することは無かったという。それでも子どもたちだけでの通学は危険が多かったことだろう。
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当時はこれより更に狭い山道を、子どもたちは1時間かけて通学していた。
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ある時、台風で橋が全部流され、道や田んぼも流されてしまったことがあった。その時は仮設の橋ができるまで学校が1週間も休みになったという。「孤立してしもて連絡も取れへんかったので、当時の町長さんが山越えで来てくれた。」というから、よほどのひどい被災状況だったのだろう。その時の復旧工事ことだろうか、今津町の古い広報誌に小原谷のことが書かれている。それによると、昭和40年9月17日に襲った台風24号の際に大きな被害が出て、道路復旧工事の他、寒風川を横切る橋や『小原谷』の支流の護岸工事などが、実に3年以上もの年月をかけて行われたとある。その工事完成の状況を見に行った様子が広報に書かれているのだが、以下はそこからの抜粋である。
「寒風川岸にそって起伏し次に支流沿いに緩く上がる道は、軽四輪がヤットコサの道巾。復旧の資材はすべて笹ヶ谷で小型三輪のリヤカーに積み替えて運んだそうだ。(中略)寒風の本流にかけかえられた橋を渡るとすぐ、小原谷からの支流の合流点となる。車を降りると、新しいコンクリートの護岸があって、高さ一米余り、延長三四十米あろうか。平均してこれくらいの護岸が五ヶ所という。(中略)砂利の運搬さえ前述の通り、まして大型機械など現場には入れない。従って必然的に人力の多用が必要。労力不足の折柄、人力で仕上げる小請負など業者は相手にしない。無理押しで頼んだものの工期は延びるばかり。役場もホトホト困り果てた模様である。堰堤の最大のものはスケッチ図の所、ここは水にえぐり取られた田んぼが一畝位の穴になって水をたたえている。皮相に見れば、この年収二斗程度の米を産む田を救うために何百万かの金をかけたともいえるが、災害復旧は当面の決潰田を救うばかりが意味ではない。捨てておいては、次々と出水ごとに決潰が大きくなるばかりかその崩れ削られた土石が、堆積し奔流し激突して、連鎖的に級数的に下流へと災害を増大して行くことになるのである。それにしても現在川巾は平均二米くらい。川底の小石もあらわにささやかな水がサラサラ流れている川の、どこからこの災害をもたらした出水の力がわいて出たのだろう。改めて治水は治山が根本と思い知らされる。(中略)現地の部落の人はこの完成をどう感じておられるのかと立ち寄ったが、男は全部山仕事に出払って、おばあさん1人留守居の状態ではそれも不能。訪問日時を連絡しておけばよかったが、電話がないので致し方がない。電話も申請はしてみたが、笹ヶ谷からは三粁余では無理な相談のようだ。郵便さえ笹ヶ谷までしか配達されないように聞いている。こんな僻地を一そ引き払って行ったらと誰しも考える所。災害の直後、町長もそんな考えでその後の面倒も見ようと相談したが田も家も買い手がないので見捨てて行かねばならず、山仕事田仕事の外の才覚も無い者が無一物で町に出てもと、遂に決断がつかなかったと話にきいたことがある。超過疎地区を弧守する人の悩みは深いものであろう。イワナがつれそうだとのぞきこむ溪には、山桜が咲き鶯も鳴いているが・・」
(※以上『今津町報/昭和44年(1969年)4月25日発行』より抜粋)
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おそらくその時の護岸工事で造られたものと思われるが、45年もの歳月が流れていることを考えると、その後に補修工事などもあったかもしれない。
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このように、コンクリート部が完全に崩れ落ちてしまっているところもある。
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その時の町報には小さな挿絵も載せられており、そこには下流の護岸工事箇所から見た『小原谷』の様子が描かれていた。それを見ると当時の集落がイメージしやすいが、そのスケッチを元に描いてみたのが下の絵だ。つたない絵で申し訳ないのだが、残念ながら『小原谷』全体が写っているような写真を見つけることができなかったので作ってみた次第だ。
今は下流から見ても、植えられた杉に視界が覆われてこのような景色の面影を見ることはできない。椋川の他の集落ほどではないにしろ、暗い山の道を抜けると、そこには茅葺き集落と青々した田んぼのある谷合の風景が広がったことだろう。それにしても、工事そのものも人力のみを頼りにせざるをえない状況を生み出す道路事情や、被災直後には町長自らが離村を進めていたことなど、やはり小原谷で生活し続けることの困難さが、文中の様々な表現でもよくわかる。しかし結局この時も離村の決心はつかず、これから5年後の秋の終わりに遂に離村を決意することになるのである。
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今津町報に掲載されていたイラストを元にイメージしてみた、護岸工事後の『小原谷』。管理人の勝手な想像で描いてみたものです
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離村の年、上のお姉ちゃんは6年生。これまでは大変ながらも隣家の同級生と椋川分校に通っていたが、卒業すると遠い中学校へ行かなければならない。朝も帰りも今までよりはるかに早く家を出ての山道の自転車通学となる。さらに、その下の妹さんは次が小学校2年生。もう一緒に通学する友だちが村からはいなくなる。しかし、幼い女の子を一人でそんな山道を登下校させる訳にはいかず、毎日の送り迎えが必要になってくる。とはいえ仕事もあるし、それは不可能なこと。そんなこともあり、上のお子さんが中学校に入る前に『小原谷』から出ることを決意する。たとえ3学期の一学期間だけでも、姉妹で新しい学校に通わせてあげたいという配慮からだ。それとやはり春になるまで雪に閉ざされてしまう、ということも秋の離村を決めた要因の一つであったことだろう。そうして卒業前の10月の末、安本さん一家は故郷を離れた。
子どもの教育(進学)問題を機に離村を決意する例は大変多いが、安本さんの場合も、やはりそれが離村を決心した大きな要因だった。ちなみに、小原谷から中学校までの通学は、先の中学生まで小原谷ですごされた方の場合は、自転車で椋川へ向かい、集落を越えてそのまま国道367号線の椋川口まで行って、そこからバスで中学校のある保坂まで通っていたそうだ。しかし、この頃はもう椋川までバスが入って来ていたようで、通学の負担も少しは軽減されている。
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小原谷口にかかる「出合い橋」。昭和56年竣工なので、今の道ができた時に造られたものなのだろう。離村の7年後である。
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こうしてみてみると、離村の時まで遂に小原谷〜笹ヶ谷間の道が普通に使えるような道に整備されることはなかったことがわかる。時代そのものが、まだまだ未舗装路が多く残っている時代でもあったが、何より、わずか数人の人たちのために莫大な予算をかけて道を造ることは現実的ではなかったのだろう。その前に行われた台風災害への復旧工事が、町としても限界としていたのかもしれない。町長自らが説得に来られていることからも、それがよくわかる。それと並行して、外に出て金を稼がなくてはならない社会へと時代が変わり、山に住む人たちもそれに対応していかなければならなくなった。そして今後の進学や就労などの問題、今後抱えるであろう様々な問題を考えるともう出る以外の選択肢はなかった、そういう状態だったことは間違いない。
今現在も過疎化や人口減少、少子化などで地域からどんどん小・中学校が姿を消している。今の時代では、昔のような道路事情の劣悪さはないのかもしれないが、これら教育問題を理由に故郷を離れることを決めた家族は少なくないのではないだろうか。学校の統廃合は過疎化により拍車をかけていることは間違いなく、過疎化は学校の統廃合に拍車をかける。この悪循環がいつまで続くのか、その見通しは立たない。
★『小原谷』の道(小原谷〜河内)
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福井県河内から見た県境の山々。この山向こうに『小原谷』があった。
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今津町史を見ると、椋川は(福井県)上中町熊川まで8km、朽木村市場まで6km、保坂まで6kmの距離にあり、道が整備される以前は、日常的な買い物は最も商店が整っていた熊川で買い求めたとある。 この場合の『椋川』とは、中心部の小字『笹ヶ谷』のことをいったものだろう。
それでは『小原谷』はどうだったのか。単純に当時の小原谷〜椋川間が3kmだとすると、朽木市場・保坂へ行くのはともに9kmもの道のりということになる。今のような整備された道ではないことを思うと、この距離は日常的に考えると大変な距離といえる。ところが下の地図を見てもわかるように、小原谷〜熊川となると逆に距離が短くなって、5km余りとなる。これは山越えのルートを使うからだ。もちろん道は文字通りの山道で、人以外、荷車や自転車なども通ることは不可能。そして利用する人の数も知れていることを思うと、もう獣道に近いような道だったのかもしれない。こんな道だから、荷物は全て人が背負って運ばなければならない。それでも、『小原谷』の山向こうの福井県側に下りると『河内』と『熊川』を結ぶ道が通っており、そこから『熊川』までは3km余りで行ける。したがって山道ではあるものの、小原谷の人々が、山越え道で便利な『熊川』まで行くというのは、普通のことだったと考えられる。
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※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。
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先にも述べたが、当時は『小原谷』から寒風川沿いに北上し、九里半街道(若狭街道)沿いの『大杉』あたりに出る山道があり、それが地図にも記されている。しかし距離的にも地形的にもより労力を要するこのルートが、熊川に出る為に使われることは無かった。また、『保坂』に出るのも『椋川(笹ヶ谷)』〜『途中谷』経由で行ったので、生活の中でこの道が使われることは無かったと思われる。安本さんにうかがう中でもこの道のことはほとんど出てくることはなく、そのことをうかがっても「あの道ができたのはずっとあと」と、ほとんど存在さえない感じであった。おそらく、その頃の『小原谷』の人たちにとっては、ほとんど使われていない道だったのだろう。
こう見ると、長い歴史の中において小原谷〜河内〜熊川という福井とを結ぶルートは、『小原谷』からのいくつかの道の中でも最も使われていた道だったといえそうだ。『小原谷』の檀那寺が熊川の得法寺というお寺であることからも、若狭側との結びつきの深さと歴史を感じる。河内や熊川のある福井県の『上中町郷土史(昭和39年発行)』には、「途中谷への間道」として
「イ.河内から朽木、麻生へ出て合する道」
「ロ.日笠から池河内三番滝を右に見て麻生へ出て途中谷本道に合する道」
「ハ.遠敷から遠敷谷、上根来、針畑峠、多田ヶ岳を下に見て滋賀県の乎入谷から途中谷本道へ」
などのルートが挙げられている。この「途中谷の道」というのは、今のR303からR367で京都に向かう道のことで若狭街道のことを指しており、その本道へ山越えで合流する近道のことが記されたものだ。そしてこの中の「イ」のルートこそ、まさに河内〜小原谷〜椋川を経て若狭街道へと入る道のことである。このことから、若狭から京都への主要道の若狭街道の間道として河内〜小原谷の道が古くから使われていたことは明らかで、今でこそ人が通らず、その形跡さえ消えてしまっている道も、その昔は生きている道として人々に大いに使われていた道だったということがわかる。昭和49年の離村の頃まで、小原谷から熊川への山越え道での行き来はけっこう頻繁に行われていたというから(ほとんどが小原谷の人々)、この『小原谷』が廃村となるとともに、その道としての長い長い歴史の幕を閉じたといえるのかもしれない。また、先の今津町史の「椋川から上中町熊川まで8km」という表現に関しても、椋川の人たちもこの道を使って熊川へ買い物に出ていたことを示しているのだが、それがいつの時代のことなのかの詳細は書かれていなかった。椋川に車が入ってこれるようになったのが昭和30年代半ばということを考えると、その頃まで椋川の人たちもこの山越え道を日常的に使っていたのかもしれない。
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ちょうど河内側の谷筋道の出口辺りからの風景。ちょうど山向こうが『小原谷』だ。
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歴史のことでいうと、こういうお話をうかがった。熊川〜小原谷の途中に、殿様の休憩所と言われている所があり、椋川へ行く途中にも殿様の休憩所と呼ばれる所があるというのだ。村に昔から伝わる言い伝えなので、いつの時代の殿様のことなのかはわからないが、いずれも先の「イ」のルート上のことなので、その昔にこの間道を殿様一行が通って京か若狭へ行ったことの伝承と思われる。間道ということを考えると、戦のための先を急いでの山越えだったかもしれないし、戦に破れ命からがらの敗走ルートだったのかもしれない。そんなことを思いながら県境の山波を見ていると、なんだか静かな山も賑やかに感じたりするから面白い。
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※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。
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※この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです
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上の2つの地図をご覧いただきたい。上のモノクロの地図は『小原谷』から福井県の『河内』側への山越えのルート(オレンジ線)を示したもので、地図は大正13年のもの。一方下の地図は現在の地図で、当然もう昔の山越え道は記されていない。少しややこしいのは『河内』の位置だ。現在この地域はダム建設のために昔と今とは大きく変わり、そのため『河内』集落も移転を果たしている。したがって昔の河内(青丸)と現在の河内(緑丸)とで位置が異なっているのである。そこを注意してご覧いただきたい。
山越えのルートを見てみよう。地形図からすると、まず『小原谷』の谷をそのまま奥に登っていき、標高430mあたりで峠を越えて少し尾根づたいに下った所で一気に谷へ下りる。そこからは谷に沿って下って行き河内〜熊川間の道に出る。当時の河内温泉のちょうど横だ。当時、安本信雄さんは炭俵を背負って山越えで熊川へよく行かれたという。「(山越えの道は)おりたらちょうど温泉の玄関のとこで、そこで一服してから熊川へ向かったんや。」「藤屋という旅館があって、そっからまた、ずーっと下っていって熊川まで行った。」ということだ。温泉から熊川までは30分ちょっとで行けたらしい。そして熊川で炭を売り、生活用品を買ってまた同じ道を通って帰ってくる。米以外は熊川に出た時に買いだめしてくるので、帰り道も背中の荷物は一杯だったのだろう。それでも「朝早う家出たら、昼までに帰ってこられたんや。」というから、その健脚ぶりは現代人からは想像がつかない。
その逆に、熊川からも行商の人が山越えで来ることがあったそうだ。ただ熊川からの来訪者は少なく、あとは葬儀の際のお坊さんくらいだったと思われる。行商に関していえば、椋川からの道が軽四輪が何とか通れるようになってからは、朽木からの行商の単車も入ってくるようになったという。それでもこの若狭行きは離村直前まで続けられていたのは、やはり生活面で便利な福井県側とのつながりが太かったからなのだろう。
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※この地図データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです
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少し話はそれるが、この河内温泉だが、私も20年以上前に1度訪れたことがある。もちろん当時はこのようなことは何も知らず、ただ秘湯に興味を持ってあちこちの秘湯を訪れていただけである。熊川から細い道をクネクネ車を走らせ見えてきたのは寂れた一軒の温泉。入ろうと思ってきたのだが、玄関で中年カップルに出会い、なんとなく入りそびれてそのまま帰ってきたのを覚えているもの、その建物などの様子についてはほとんど記憶が残っていない。「いつかまた来たいなぁ」など思いながら結局来る機会無く、ダム工事で温泉は移転してしまったのだが、今思うと残念でならない。その当時の温泉紹介の本を見てみると、立派な木造の温泉宿の写真が載っている。何でも、当時でも築90年以上もの建物だったらしい。なお上の航空写真は、『小原谷』離村直後の頃の河内温泉周辺を写したものだ。小原谷の人々は、温泉下の右から来る谷道を下ってきたものと思われる。
先日その温泉跡を訪れてみたのだが、当時を思い出させるようなものは石段と石垣くらい。帰り道に新しくできた道から、谷底に見える温泉跡を見おろしてみると、コンクリートの枡のようなものも見えたのだが、それが何だったのかは定かではない。この夏より河内川ダムはいよいよ本体の着工に入るということで、6月に安全祈願祭が行われた。完成した後には周辺は完全水没し、その景観は大きく変わっていることだろう。そして故郷を去った人々の思いとともに、過去に何度も大きな水害をもたらした台風による大雨や洪水などから、地域住民を守ってくれるはずだ。
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谷の底に残る河内温泉跡周辺。すぐ横が『小原谷』とを結ぶ谷道の起点だ。
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河内温泉跡と思われる場所に残る石段。やがてこの辺りは湖底へと沈む。
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新たな道から谷底の温泉跡を見ると、コンクリート枡のようなものが見える。
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話を戻す。このように、よく使われていた山越えでの若狭行きの道だが、やはり女性だけでは危険だ。信雄さんの奥さんからこういうお話をうかがった。お子さんが幼い頃に中耳炎を患った時のことだ。耳の病院が滋賀県側には無くて、小浜の病院まで行くことになった。山越えの道は、「朝早う行くと、ケダモンがいるやろ。女1人子どもおうて行くには危のうて・・」ということなので、遠回りにはなるが『保坂』まで信雄さんに車で送ってもらい、そこからはバスに乗って小浜の病院まで行ったそうだ。山越えの道はいくら近道とはいえ、やはりそこには危険も伴っていたのだ。それにしても、具合が悪い子どもさんを背中に背負って小浜まの通院は、本当に大変だったことだろう。さらに帰り道は信雄さんが仕事のため、車で迎えにきてもらうこともできない。そのため『保坂』までバスで帰ってきてからは、ずっと歩いて帰ったという。9kmの山坂道だ。先の地図で見ると、その大変さを改めて感じる。その時、保坂〜椋川間では、車が通ると手上げて乗せてもらったりしたこともあったというから、やはりそこには時代ならではのよさも感じるのである。
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『保坂』集落。若狭街道と朽木、京都を結ぶ道との分岐にある歴史ある村だ。
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こういう話もうかがった。話の主は、先出の中学卒業まで『小原谷』で生活されていた男性だ。やはりその方も、山越えの熊川への道をよく利用されていたという。そしてその頃は、男手のある時には、なんと福井県の嶺南病院まで山越えルートで病人を背負っていったというのだ。幼子だけではなく、成人でもそのようにして連れて行ったというから、やはりその健脚ぶりは見事としかいいようがない。なお、お盆・正月・年末の買い出しは山越えで熊川まで行き、そこからバスで小浜まで行ったそうで、親についての小浜まで買い物が、子どもの頃には大変な楽しみだったという。普段はずっと山の中で生活している子どもの目に、町の風景や様々なお店は実に新鮮に映ったことだろう。
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谷底に見えるのは『河内』と『熊川』をむすぶ道。何百年もの間、重要な道として人々の生活を支えてきたが、遂にその役割を終えて湖底に沈む、
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こうしてみると、『小原谷』の人々の生活の中において、福井県との結びつきは大変強いものがあったことがわかる。それをつなぐ山越えの道も、人々にとっては極めて身近なものだった。今は廃道となり訪れる人はほとんどなく、福井側の道の大部分もダム湖に沈もうとして、その姿は大きく変わってゆく。それでもこの道を通る人たちの数多くのドラマがあったことを思うと、見慣れない山の風景も身近に感じてくるのである。
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