〜ふるさと「小原谷」〜

旧 ・ 滋 賀 県 高 郡 今 津 町 椋 川
(現・滋賀県高島市今津町椋川)

 「そらー、やっぱりねぇ、(小原谷を)出てきとうはなかったけどね、昔からの家なり、蔵なりが修理(の時期)がまわってきとったん。なんぼかかけなんだら(お金をかけないと)修理もでけへんし、昔の家の屋根は茅葺きで、茅もあらへんし。直していつまでおれるかを、考えたわけや。これからの若いもんは、あんなとこに住めへんし、住まれへんし、あんな奥におったら仕事もあらへんのやし、口の方へ出てきて、そこに住まへんなんだら職もないし、生活でけへんねやから。子どものこと考えて、こんなとこいつまでもおってはいけへん。」

『小原谷』集落の手前辺り。村があった頃は、ここからその姿が見えたことだろう。今は成長した杉に遮られ、大きく景観は変わっている。(2013年8月撮影)


 これは、『小原谷』を出ることを決めた時の心境をうかがった時のことばだ。少し間を空けながらしみじみと話されたそのことばの中に、故郷を離れようという決心に至るまでの苦悩を感じることができる。ことばの主は、小原谷で生まれ小原谷で育ち、そこで約39年間生活をし、ついに昭和49年に先祖代々住み慣れた村を離れる決意をした安本信雄さん。昭和10年のお生まれというから、今年(2013年)で78歳。小学生の時に終戦を迎え、以後、戦後復興、高度経済成長、燃料革命など、山村の生活が大きく変貌した時期までの激動の時代を身をもって体験しながら、この最奥の山峡集落『小原谷』で生きてこられた方だ。

 これまで本サイトでは、廃村『小原谷』の項で廃村時期を昭和42年としてきていたが、実際は大きく異なり昭和48年か49年だったということが、今回の聞き取りで明らかになった。「角川日本地名大辞典」(編者:角川日本地名大辞典編纂委員会)や「湖国と文化」(編集・発行:滋賀県文化体育振興事業団)などではいずれも昭和40年の初めとなっていたが、実際はそれよりずっと後のことだったのである。
 『小原谷』は大字『椋川』の小字となる小さな集落。このような小字の集落の場合、町誌や地名辞典などに記録として残っていないことが多く、特定の地域の郷土史など以外ではなかなかその情報を見ることができない。したがって僅かな情報に頼りがちになるので、誤情報や誤解釈などだけが伝わってしまうことも少なくない。そのことを考えると、やはり当地にお住まいだった方にお話をうかがうことの重要性を、改めて感じる。なおこれに伴い、本サイトの廃村『小原谷』の項でも、廃村年を訂正させていただいた。

今から20年程前の『小原谷』。林道を歩いていると、眼下に突如廃屋が見えて驚いたのを覚えている。(1992年撮影)


 今回の‘e-konの自由帳「ふるさと小原谷」’は、2013年の5月におこなった安本信雄さんご夫婦、そして同じく小原谷で少年期をおすごしになった方(男性/昭和31年生)の三方からの聞き取りを中心にまとめてみたものである。なお、いかに長年お住まいだった故郷の地とはいえ、もう半世紀以上も前の遠い記憶を呼び起こしながらお話ししていただいたもの。当然、記憶違いなどもあることだろう。ご本人もそのことを気にしておられて、それを考慮した上で聞いてほしいということを何度もおっしゃられた。そこには、正確なものを伝えたいという信雄さんの気持ちが強く感じられる。したがって、この自由帳でまとめたものも、そのあたりのことを配慮の上でご覧いただければと思う。


★『小原谷』集落のこと

 先にもふれたが、『小原谷』集落は滋賀県高島市今津町の大字『椋川』のいくつかある小字のうちの一つの集落で、滋賀県と福井県の県境近くに位置していた。滋賀県内では珍しく、琵琶湖ではなく小浜湾に流れ出る川の北川、その支流の寒風川に県境辺りから注ぐ支流の谷の僅かな平地に集落はあった。源流にほど近い所であり、川巾は極めて狭いものの水量はそれなりに豊富で、一度も枯れることはなかった。この水源となる山を一つ越えれば、福井県の三方上中郡若狭町の『河内(こうち)』だ。買い物などに行く場合、滋賀県側だと椋川にいったん出て、そこから朽木市場や保坂に出ることになるので、距離的にも時間的にも福井県の山越えルートの方がずっと便利だった。また福井県側の方が店や品物も豊富で、病院などもあった。したがって、生活用品の購入・仕入れなど、もっぱら『熊川』や『小浜』方面へ出ることが多かったという。

 廃村となった時は、家屋が3軒で3世帯のみが生活をする小さな集落であったが、以前は4軒、それよりもっと前には10軒ほどもの家屋があったという。信雄さんの奥さんが昭和30年代にここに嫁いでこられた時には、川向こうにもう1軒の家屋があったが、すでに崩れかけていて廃屋となっており、もう人は住んでいなかった。残されている家屋の傷み具合などからすると、昭和20年代後半から30年代初めにかけての頃に、『小原谷』から離村されたのだと思われる。ちなみに『湖国と文化/56号(編集・発行:滋賀県文化体育振興事業団)』では、昭和31年に1軒が離村したと記されているので、おそらくその頃で間違いないだろう。

川向こうに残る石垣。もう一軒あったというのは、おそらくこの辺りだと思われる。


 また、集落手前の川沿いの田んぼとなっている所に、「セイベイヤシキ」「○○ヤシキ」などの名前で呼ばれている所があり、ずっと昔はそこに家屋があって人が住んでいたことを思わせる地名が残る。10軒ほどもあったという時代は江戸より以前、年代の詳細は定かではないが、遠い昔には川沿いに何軒もの民家が並ぶ集落であったことは間違いない。なお最後まで残った3軒は、いずれも「安本」姓であった。そして離村後は、今津町内や朽木方面などへそれぞれ転居されている。

『小原谷』集落跡。当時使われていたであろう洗濯機などの残骸が、今も残る


 村在りし頃には、谷の川に沿って茅葺き家屋、蔵、納屋などが並んでいた。3軒の民家はいずれも茅葺き家屋で、最後までトタンが被せられることはなかったというから、村が無くなる最後まで、茅葺き民家が連なる美しい谷の風景がそこにあった。蔵は瓦葺きで2階建て、各家に2軒ずつあった。現在は多くの杉が植林されて高く成長しているので、薄暗く狭い谷のイメージしか持てないが、「細い谷やったけど、日は道に沿って上る感じで、けっこう日当りはよかったよ。」というように、今の小原谷とは全く違う、明るく開けた風景が広がっていたのである。太陽の動きと同調するかのように東西に細くのびる谷、そのため山に囲まれている割に、そこそこの日照時間が確保されていたのだろう。
 各家にあったという納屋は、通常の納屋のイメージとはずいぶんと違っており、2階建てて広さも8畳二間くらいあった。これは十分に人が住めるほどの広さだ。事実、廃村後にここから納屋が移築され、移転先では居住スペースとして使われていた所もあったときく。下の写真は1993年に訪れて現地を撮影したものだが、ここに写っている大きな建物は、おそらく現地に残された納屋だったと思われる。それにしても離村後20年にもなるのに、このように形をとどめているのは、よほど頑丈な造りであったからだろう。しかし、毎年の大雪にも耐えてきたこの納屋もその数年後には完全倒壊し、姿を消してしまうことになる。

『小原谷』集落跡の納屋の残骸。この時はまだ、かろうじてその姿をとどめていた。(1993年1月撮影)


 なおこれらの納屋は、岐阜県から移動製材が来た時に地元の山から切り出した木(杉や栗)を製材してもらって建てたものだそうだ。当時は、今のように椋川からの車が通れるような立派な道は無く、人が歩く程の幅しかない山道。そのためトラックなどで材木を運搬することはできない。そこで移動製材所が来たことを機に、そこの木挽き職人に板を作ってもらい、それを地域の大工に頼んで納屋を作ってもらったのだ。信雄さんが「昔からのごっつい木」と表現されていた地元の木々をふんだんに使って建てられた納屋、後になって移築されるほどなのだから、納屋とはいえさぞかし立派な佇まいであったことは想像に難くない。なお移動製材は、5〜6年ほどの間当地にいて、その頃は飯場なども建てられていたというから、それなりの数の職人さんが山を賑わしていたことだろう。

※この空中写真データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです


 上の写真は1974〜78年頃に撮影された『小原谷』の空撮写真だ。白い部分が集落で、左が最奥の家屋の安本信雄さん宅となる。集落右に広がるのは田んぼで、その田んぼの端の道を右(東)に行くと寒風川に突き当たり、左(西)へ向かうと福井県境の山越えルートとなる。寒風川からの分岐から集落までの間にあった田んぼ以外にも、最奥の家屋の上流部や山側の谷部で田畑をされていることが確認できる。 離村が昭和49年(1974年)とすると、ちょうど離村の頃の写真だ。田んぼの面積は決して広くはない。しかし、そこで獲れた米は自分たちで食べるだけではなく、親類などにも送ったりしたというから、狭い谷であってもそれなりの量の収穫を得ることができた。ここ『小原谷』では、周辺の山での炭焼きによる収入とさまざまな山の幸、そして細くはあるが潤沢な山からの水が人々の生活を支えていたといえそうだ。

現在の田んぼ跡の姿。多くの杉が植林され、もうかなりの成長が見られる。(2013年8月撮影)


 現在は川沿いの田は全て植林されているが、平地となっていたり石垣が残っていたりなど、わずかではあるが当時の面影を感じることもできる。先の「セイベイヤシキ」「○○ヤシキ」などという住居があったことを思わせる地もこのあたりである。今は薄暗く静まり返っている杉林であるが、その昔は民家が建ち並び人々の生活があった。その道ばたには小さな石仏がある。おそらく長きに渡って、生活する人々の心の支えとなってくれていたのだろう。村人を見守りつつ、移り変わる村の様子を見てきたこの石仏は、今も静かにその姿を見せてくれている。

いつの時代から道ゆく人々を見守ってきたのか、今も残る路傍の石仏。(2013年5月撮影)



★『小原谷』の道(小原谷〜椋川、通学)

椋川谷の集落。椋川にはこのような小字となる小集落が谷にいくつか点在する。これだけを見ると広々として感じる。(2013年8月撮影)


 冒頭にも書いたが、集落『小原谷』は大字『椋川』の小字の集落だ。その『椋川]』は、小原谷の他に乾谷、崎原、堂前、明良谷(あからだに)、中山、笹ヶ谷、上自在坊、下自在坊などの小集落よりなっているが、その中で小原谷、上自在坊、下自在坊は昭和40年代に既に廃村となっている。実際に椋川谷を訪れてみるとけっこう広々した感じがするのだが、地形図で見ると、これらの大部分が山間部をクネクネ流れる寒風川の本流・支流の谷のわずかな平地に点在しており、平地の大変少ない山中にあることがよくわかる。中でも小原谷口より北側の、本流である北川に注ぐまでの谷は急峻で、わずかな平地さえ探すのが難しいくらいだ。今でこそ林道(寒風麻生林道)が通っているものの、永らく山道のままだったというのも納得できる。

朽木の横谷へ抜ける林道の峠部より見た椋川谷の集落。こうして見ると大部分が山ということが、よくわかる。(2013年8月撮影)


 このようにまとまった平地の無い『椋川』も、今津中学校郷土研究クラブがまとめた『三谷郷土史』の「椋川調査報告(昭和38年)」では、明治初期には戸数75戸・人口400人の規模があったことが記されている。冬場に多くの積雪があるにかかわらず、このように多くの人々の生活が山深い中にあったのは、『椋川』が良質の炭を豊富に生産できる地だった、ということに尽きるのだろう。なお同書によると、1938年(昭和13)に戸数56戸・人口302人となっている。しかし既に3つの集落が地図から姿を消し、今現在も過疎高齢化が進む『椋川』は、2010年の調査では、戸数31戸・人口58名となっており、時代の荒波に飲み込まれた山間集落であることが数字からも読み取ることができるのである。

 かつて今津西小学校椋川分校で教鞭をとられ、自らも椋川の小字『上自在坊』(廃村)のご出身で、現在は椋川の郷土史を研究されている澤田純三氏の著書「区誌・椋川」に、椋川(むくがわ)の名の由来が記されている。それによると、若狭の河内谷からも、朽木谷の麻生からも、谷筋を登りつめて尾根から目を凝らしても煙も見えない山の向こう側にある村、つまり周辺の河内、大杉、山中、保坂、麻生などの人たちがみな「山の向こうがわの村」としかいいようのなかったところから「むこうがわ」→「むくがわ」と呼ばれるようになったとある。今は車で苦もなく行けてしまう『椋川』だが、それでも車で走っていると、この地が山深い「むこうがわ」というのは体感できる。そういえば20年程前に初めて『小原谷』に訪れた時でさえ、周辺の道はもっと狭く、今とは道路状況がずいぶんと違っていたのを思い出す。
 余談になるが、今回こうして安本信雄さんにお話をうかがえたのは、実は澤田純三氏の存在無くしてはあり得ないことだった。「区誌・椋川」を今津図書館で見つけて、ぜひ『自在坊』のお話をうかがいたいと氏に連絡を取ったところ、お忙しい中でも快諾していただき、そしてそのお話をうかがう中で「小原谷の教え子がおるよ。」ということで信雄さんをご紹介いただいたのだ。したがって『自在坊』の貴重なお話をうかがい、さらにこのような機会も作っていただいた澤田先生には、ただただ感謝の気持ちでいっぱいなのである。

※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。


 上の地図は大正13年の地形図からのものだ。小さくて見にくいのだが、赤丸が『小原谷』で、3つの青丸が上から『保坂』『笹ヶ谷』『朽木市場』の各集落。それぞれへのルートをオレンジ色で示している。ご覧のように道や集落の周囲は全て山で、平地は僅か。この地図では途切れているが、小原谷から左にのびる道が、山越えで福井の『河内』へ抜けるルートである。主要道の位置は今と大きく変わらないが、今はもう廃道となっている『笹ヶ谷』から朽木麻生に抜ける搦谷ルートがけっこう太く描かれている。この頃はけっこう使われていた道であったが、『上自在坊』『下自在坊』の衰退とともに道も寂れ、やがて廃道へと変わっていったもの思われる。

椋川の中心部の『笹ヶ谷』集落。実に美しい里山の風景が広がる。


寒風麻生林道の小原谷口付近。この未舗装路を行くと『小原谷』だ。


 この奥深い自然の中にある大字『椋川』の中でも最も山深い最奥の集落が『小原谷』だ。それでは、安本さんの聞き取りから、道に関するところを記しておく。

 まず椋川(笹ヶ谷)〜小原谷間の道だ。ここでいう椋川は、大字椋川の中で一番大きな字で村の中心とも言うべき『笹ヶ谷』のことで、字の中では一番大きくて戸数も多く、椋川分校もここにあった。今は国道367号線の椋川口から『笹ヶ谷』までは立派な道が着いており、道は多少細くはなるものの西側の最奥『乾谷』まで苦もなく車で行ける。一方、『笹ヶ谷』から分岐して北へ行く『小原谷』方面へと向かう道はというと、さらに分岐する小原谷口までは細く落石等はあるものの大きな問題は無い。しかし先述のように、この道は離村後につけられたもので、村在りし頃は今のような道ではなく、かろうじて軽トラ一台が通れるガタガタ道であった。イメージでいうと、今も当時の面影を残す小原谷口から集落跡へ向かう狭い未舗装路を、もう少し狭くしたような感じだったのだろうか。

 下の2つの地図をご覧いただきたい。上のほうの地図は現在の小原谷〜笹ヶ谷間のもので、下は大正13年発行のものだ。2つを比べてみると、小原谷口から大きく南にカーブするあたりで、昔と今とではルートが違っているのがわかる。昔の道はもっと川沿いに道が着いている。

※この地図データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです


※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。


 「離村の時に何とか軽トラが入って仏壇を運ぶことができた。」というエピソードをうかがったが、実はこの道さえも着いたのはかなり新しく、それまでは耕耘機がやっと通れるくらいの幅しかなかった。『小原谷』の長い歴史の中でその大半は、人一人がやっと通れる程の山道が椋川とを繋ぐ唯一の道だったという厳しい道路事情がそこにはあったのである。
  椋川周辺の道路事情に関して、先出の今津中学校郷土研究クラブの『「椋川調査報告(昭和38年)/三谷郷土史』の道に関しての部分を見てみると、明治23〜24年頃に若狭街道が修復されてからは、今津へ荷物を出す際には『保坂』で中継ぎする人を頼んで荷車で運んだことや、途中谷〜保坂間の道が悪いので、明治29年に椋川が主になって改良され、市場・熊川県道になったことがなどが書かれている。また、椋川の『笹ヶ谷』以西は、大正の初めに改良工事が行われてやっと荷車が通れる道になったとあり、その状況が大きく変わったのが昭和34年というから、長きに渡って厳しい道路状況にあったことがわかる。そして、同書ではふれられてはいなかったが、さらに僻地となる『小原谷』の道路状況については、言わずもがなといったところなのだろう。したがって、当時の人にとっても『小原谷』から『笹ヶ谷』まで出るのは、決して容易なことではなかったと思って間違いなく、特に冬場は積雪量の多いこの地域は大変だったことだろう。

小原谷口から『小原谷』へと向かう道。昔の面影を残す谷の道だ。


 ちなみに小原谷口よりさらに北にのびて国道303号線(若狭街道/九里半街道)へと至る道は、大正13年の地形図でも破線で示されているが、今のような車の通れる林道となったのは離村後のことで、当時はなかった。今でも大変荒れているこの道は、落石や崩土で通行止めとなっていることが多く、自然環境の厳しさを強く感じる林道となっている。ながらく山道で終わっていたのも、そのあたりのことが原因となっていたのだろう。なお、この道の303号線と交わる起点から『笹ヶ谷』、そして『乾谷』を経て朽木の『横谷』までが、寒風麻生林道である。

現在の、小原谷口以北の寒風麻生林道。道は大変荒れていて全線通行可能なのが稀なくらいだ。


 信雄さんご夫婦の、6年生と1年生の2人のお子さん(女の子)が分校に通っている頃の小原谷〜笹ヶ谷間の道は、先の地図でもわかるように、今の寒風林道のルートとは違ってもっと川の近くを通る道だった。クネクネ曲がったり登ったり下りたりで、約3kmの山道を1時間かけて通学した。朝は6時半から7時までには家を出る。隣家のお子さん(女の子)といっしょに子どもたちだけでの登校だ。しかし冬場はそうはいかない。雪の季節になると登校だけで半日近くもかかってしまうため学校に泊めてもらったという。その時は隣家の親や安本さんの祖母などが交代で学校へ行き、土曜日に迎えに行って連れて帰ってくる。それでも雪の多い日は、子どもは帰ってこず、保護者が着替えだけを持って帰ってきた。また、お子さんが女の子だったということもあるのだろう、隣のお子さんが学校を休まれる時は、椋川にある奥さんの親元に泊めてもらって、そこから登校するということもあったそうだ。これは昭和40年代後半の離村直前のことである。
 それにしても山道の小さな女の子だけでの登校は、さぞかし心配だったことだろう。道は山道、時には熊も出る。しかし当時は、今の社会では何より恐ろしい存在となってしまった「人間」への心配をほとんどする必要がなかった。そのあたりに時代の違いを感じたりするのである。地形的に、外部から素性の知れない人間が入ってくることがほとんどなかったということもあったのだろうが、時代の変化と、何か歪んだ方向に進んで病んでしまっている現実を感じてならない。


今津西小学校椋川分校。分校にしたらかなりの規模だ。長らくの休校の後、2008年(平成20)に閉校となった。(2008年3月撮影)


 それよりもう少し前の昭和30年代後半から40年代の通学の様子もうかがうことができた。お話ししてくれたのは、中学生まで『小原谷』で生活されていた方(男性)で、当時は『小原谷』からは、その方と弟さんと隣家のお子さんの3人の男の子が通学していた。小原谷での思い出のお話をうかがった時に一番に出てきたのが、「雪の日の登校が忘れられへんな」ということば。雪が積もると、3kmの椋川分校までの道のりを2時間かけての登校となる。親が先に歩いて雪を踏んで道をつくり、その後を子どもたちがついてゆく。しかし帰りは子どもたちだけとなる。雪がやんだ日はいいのだが、降り続けると朝歩いた道の形がなくなってしまい大変危険な状態になる。当時は電話も無い。そこで雪が多く降ってきた時は、先生たちも気をきかせて早めに帰らせてくれたそうだ。そういえば以前、椋川分校で教鞭をとられていた先生にお話をうかがった時、雪のひどい時の小原谷の子どもたちには「お前ら、もう帰れっちゅうて早う帰らしたんや。」「来るのも遅れるから、登校して服とか乾かしてらすぐに帰り支度になって・・」とおっしゃられていたのを思い出す。道中、雪崩が起こるような箇所もあったようだが、通るのが気温の下がる朝夕なので幸いにも遭遇することは無かったという。それでも子どもたちだけでの通学は危険が多かったことだろう。

当時はこれより更に狭い山道を、子どもたちは1時間かけて通学していた。


 ある時、台風で橋が全部流され、道や田んぼも流されてしまったことがあった。その時は仮設の橋ができるまで学校が1週間も休みになったという。「孤立してしもて連絡も取れへんかったので、当時の町長さんが山越えで来てくれた。」というから、よほどのひどい被災状況だったのだろう。その時の復旧工事ことだろうか、今津町の古い広報誌に小原谷のことが書かれている。それによると、昭和40年9月17日に襲った台風24号の際に大きな被害が出て、道路復旧工事の他、寒風川を横切る橋や『小原谷』の支流の護岸工事などが、実に3年以上もの年月をかけて行われたとある。その工事完成の状況を見に行った様子が広報に書かれているのだが、以下はそこからの抜粋である。

 「寒風川岸にそって起伏し次に支流沿いに緩く上がる道は、軽四輪がヤットコサの道巾。復旧の資材はすべて笹ヶ谷で小型三輪のリヤカーに積み替えて運んだそうだ。(中略)寒風の本流にかけかえられた橋を渡るとすぐ、小原谷からの支流の合流点となる。車を降りると、新しいコンクリートの護岸があって、高さ一米余り、延長三四十米あろうか。平均してこれくらいの護岸が五ヶ所という。(中略)砂利の運搬さえ前述の通り、まして大型機械など現場には入れない。従って必然的に人力の多用が必要。労力不足の折柄、人力で仕上げる小請負など業者は相手にしない。無理押しで頼んだものの工期は延びるばかり。役場もホトホト困り果てた模様である。堰堤の最大のものはスケッチ図の所、ここは水にえぐり取られた田んぼが一畝位の穴になって水をたたえている。皮相に見れば、この年収二斗程度の米を産む田を救うために何百万かの金をかけたともいえるが、災害復旧は当面の決潰田を救うばかりが意味ではない。捨てておいては、次々と出水ごとに決潰が大きくなるばかりかその崩れ削られた土石が、堆積し奔流し激突して、連鎖的に級数的に下流へと災害を増大して行くことになるのである。それにしても現在川巾は平均二米くらい。川底の小石もあらわにささやかな水がサラサラ流れている川の、どこからこの災害をもたらした出水の力がわいて出たのだろう。改めて治水は治山が根本と思い知らされる。(中略)現地の部落の人はこの完成をどう感じておられるのかと立ち寄ったが、男は全部山仕事に出払って、おばあさん1人留守居の状態ではそれも不能。訪問日時を連絡しておけばよかったが、電話がないので致し方がない。電話も申請はしてみたが、笹ヶ谷からは三粁余では無理な相談のようだ。郵便さえ笹ヶ谷までしか配達されないように聞いている。こんな僻地を一そ引き払って行ったらと誰しも考える所。災害の直後、町長もそんな考えでその後の面倒も見ようと相談したが田も家も買い手がないので見捨てて行かねばならず、山仕事田仕事の外の才覚も無い者が無一物で町に出てもと、遂に決断がつかなかったと話にきいたことがある。超過疎地区を弧守する人の悩みは深いものであろう。イワナがつれそうだとのぞきこむ溪には、山桜が咲き鶯も鳴いているが・・」
   (※以上『今津町報/昭和44年(1969年)4月25日発行』より抜粋)

おそらくその時の護岸工事で造られたものと思われるが、45年もの歳月が流れていることを考えると、その後に補修工事などもあったかもしれない。


このように、コンクリート部が完全に崩れ落ちてしまっているところもある。


 その時の町報には小さな挿絵も載せられており、そこには下流の護岸工事箇所から見た『小原谷』の様子が描かれていた。それを見ると当時の集落がイメージしやすいが、そのスケッチを元に描いてみたのが下の絵だ。つたない絵で申し訳ないのだが、残念ながら『小原谷』全体が写っているような写真を見つけることができなかったので作ってみた次第だ。
 今は下流から見ても、植えられた杉に視界が覆われてこのような景色の面影を見ることはできない。椋川の他の集落ほどではないにしろ、暗い山の道を抜けると、そこには茅葺き集落と青々した田んぼのある谷合の風景が広がったことだろう。それにしても、工事そのものも人力のみを頼りにせざるをえない状況を生み出す道路事情や、被災直後には町長自らが離村を進めていたことなど、やはり小原谷で生活し続けることの困難さが、文中の様々な表現でもよくわかる。しかし結局この時も離村の決心はつかず、これから5年後の秋の終わりに遂に離村を決意することになるのである。

今津町報に掲載されていたイラストを元にイメージしてみた、護岸工事後の『小原谷』。管理人の勝手な想像で描いてみたものです


 離村の年、上のお姉ちゃんは6年生。これまでは大変ながらも隣家の同級生と椋川分校に通っていたが、卒業すると遠い中学校へ行かなければならない。朝も帰りも今までよりはるかに早く家を出ての山道の自転車通学となる。さらに、その下の妹さんは次が小学校2年生。もう一緒に通学する友だちが村からはいなくなる。しかし、幼い女の子を一人でそんな山道を登下校させる訳にはいかず、毎日の送り迎えが必要になってくる。とはいえ仕事もあるし、それは不可能なこと。そんなこともあり、上のお子さんが中学校に入る前に『小原谷』から出ることを決意する。たとえ3学期の一学期間だけでも、姉妹で新しい学校に通わせてあげたいという配慮からだ。それとやはり春になるまで雪に閉ざされてしまう、ということも秋の離村を決めた要因の一つであったことだろう。そうして卒業前の10月の末、安本さん一家は故郷を離れた。
 子どもの教育(進学)問題を機に離村を決意する例は大変多いが、安本さんの場合も、やはりそれが離村を決心した大きな要因だった。ちなみに、小原谷から中学校までの通学は、先の中学生まで小原谷ですごされた方の場合は、自転車で椋川へ向かい、集落を越えてそのまま国道367号線の椋川口まで行って、そこからバスで中学校のある保坂まで通っていたそうだ。しかし、この頃はもう椋川までバスが入って来ていたようで、通学の負担も少しは軽減されている。

小原谷口にかかる「出合い橋」。昭和56年竣工なので、今の道ができた時に造られたものなのだろう。離村の7年後である。


 こうしてみてみると、離村の時まで遂に小原谷〜笹ヶ谷間の道が普通に使えるような道に整備されることはなかったことがわかる。時代そのものが、まだまだ未舗装路が多く残っている時代でもあったが、何より、わずか数人の人たちのために莫大な予算をかけて道を造ることは現実的ではなかったのだろう。その前に行われた台風災害への復旧工事が、町としても限界としていたのかもしれない。町長自らが説得に来られていることからも、それがよくわかる。それと並行して、外に出て金を稼がなくてはならない社会へと時代が変わり、山に住む人たちもそれに対応していかなければならなくなった。そして今後の進学や就労などの問題、今後抱えるであろう様々な問題を考えるともう出る以外の選択肢はなかった、そういう状態だったことは間違いない。

 今現在も過疎化や人口減少、少子化などで地域からどんどん小・中学校が姿を消している。今の時代では、昔のような道路事情の劣悪さはないのかもしれないが、これら教育問題を理由に故郷を離れることを決めた家族は少なくないのではないだろうか。学校の統廃合は過疎化により拍車をかけていることは間違いなく、過疎化は学校の統廃合に拍車をかける。この悪循環がいつまで続くのか、その見通しは立たない。



★『小原谷』の道(小原谷〜河内)

福井県河内から見た県境の山々。この山向こうに『小原谷』があった。


 今津町史を見ると、椋川は(福井県)上中町熊川まで8km、朽木村市場まで6km、保坂まで6kmの距離にあり、道が整備される以前は、日常的な買い物は最も商店が整っていた熊川で買い求めたとある。 この場合の『椋川』とは、中心部の小字『笹ヶ谷』のことをいったものだろう。
 それでは『小原谷』はどうだったのか。単純に当時の小原谷〜椋川間が3kmだとすると、朽木市場・保坂へ行くのはともに9kmもの道のりということになる。今のような整備された道ではないことを思うと、この距離は日常的に考えると大変な距離といえる。ところが下の地図を見てもわかるように、小原谷〜熊川となると逆に距離が短くなって、5km余りとなる。これは山越えのルートを使うからだ。もちろん道は文字通りの山道で、人以外、荷車や自転車なども通ることは不可能。そして利用する人の数も知れていることを思うと、もう獣道に近いような道だったのかもしれない。こんな道だから、荷物は全て人が背負って運ばなければならない。それでも、『小原谷』の山向こうの福井県側に下りると『河内』と『熊川』を結ぶ道が通っており、そこから『熊川』までは3km余りで行ける。したがって山道ではあるものの、小原谷の人々が、山越え道で便利な『熊川』まで行くというのは、普通のことだったと考えられる。

※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。


 先にも述べたが、当時は『小原谷』から寒風川沿いに北上し、九里半街道(若狭街道)沿いの『大杉』あたりに出る山道があり、それが地図にも記されている。しかし距離的にも地形的にもより労力を要するこのルートが、熊川に出る為に使われることは無かった。また、『保坂』に出るのも『椋川(笹ヶ谷)』〜『途中谷』経由で行ったので、生活の中でこの道が使われることは無かったと思われる。安本さんにうかがう中でもこの道のことはほとんど出てくることはなく、そのことをうかがっても「あの道ができたのはずっとあと」と、ほとんど存在さえない感じであった。おそらく、その頃の『小原谷』の人たちにとっては、ほとんど使われていない道だったのだろう。

 こう見ると、長い歴史の中において小原谷〜河内〜熊川という福井とを結ぶルートは、『小原谷』からのいくつかの道の中でも最も使われていた道だったといえそうだ。『小原谷』の檀那寺が熊川の得法寺というお寺であることからも、若狭側との結びつきの深さと歴史を感じる。河内や熊川のある福井県の『上中町郷土史(昭和39年発行)』には、「途中谷への間道」として
  「イ.河内から朽木、麻生へ出て合する道」
  「ロ.日笠から池河内三番滝を右に見て麻生へ出て途中谷本道に合する道」
  「ハ.遠敷から遠敷谷、上根来、針畑峠、多田ヶ岳を下に見て滋賀県の乎入谷から途中谷本道へ」
 などのルートが挙げられている。この「途中谷の道」というのは、今のR303からR367で京都に向かう道のことで若狭街道のことを指しており、その本道へ山越えで合流する近道のことが記されたものだ。そしてこの中の「イ」のルートこそ、まさに河内〜小原谷〜椋川を経て若狭街道へと入る道のことである。このことから、若狭から京都への主要道の若狭街道の間道として河内〜小原谷の道が古くから使われていたことは明らかで、今でこそ人が通らず、その形跡さえ消えてしまっている道も、その昔は生きている道として人々に大いに使われていた道だったということがわかる。昭和49年の離村の頃まで、小原谷から熊川への山越え道での行き来はけっこう頻繁に行われていたというから(ほとんどが小原谷の人々)、この『小原谷』が廃村となるとともに、その道としての長い長い歴史の幕を閉じたといえるのかもしれない。また、先の今津町史の「椋川から上中町熊川まで8km」という表現に関しても、椋川の人たちもこの道を使って熊川へ買い物に出ていたことを示しているのだが、それがいつの時代のことなのかの詳細は書かれていなかった。椋川に車が入ってこれるようになったのが昭和30年代半ばということを考えると、その頃まで椋川の人たちもこの山越え道を日常的に使っていたのかもしれない。

ちょうど河内側の谷筋道の出口辺りからの風景。ちょうど山向こうが『小原谷』だ。


 歴史のことでいうと、こういうお話をうかがった。熊川〜小原谷の途中に、殿様の休憩所と言われている所があり、椋川へ行く途中にも殿様の休憩所と呼ばれる所があるというのだ。村に昔から伝わる言い伝えなので、いつの時代の殿様のことなのかはわからないが、いずれも先の「イ」のルート上のことなので、その昔にこの間道を殿様一行が通って京か若狭へ行ったことの伝承と思われる。間道ということを考えると、戦のための先を急いでの山越えだったかもしれないし、戦に破れ命からがらの敗走ルートだったのかもしれない。そんなことを思いながら県境の山波を見ていると、なんだか静かな山も賑やかに感じたりするから面白い。

※大日本帝国陸地測量部により大正13年に発行された地形図「熊川」より。一部彩色。


※この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです


 上の2つの地図をご覧いただきたい。上のモノクロの地図は『小原谷』から福井県の『河内』側への山越えのルート(オレンジ線)を示したもので、地図は大正13年のもの。一方下の地図は現在の地図で、当然もう昔の山越え道は記されていない。少しややこしいのは『河内』の位置だ。現在この地域はダム建設のために昔と今とは大きく変わり、そのため『河内』集落も移転を果たしている。したがって昔の河内(青丸)と現在の河内(緑丸)とで位置が異なっているのである。そこを注意してご覧いただきたい。

 山越えのルートを見てみよう。地形図からすると、まず『小原谷』の谷をそのまま奥に登っていき、標高430mあたりで峠を越えて少し尾根づたいに下った所で一気に谷へ下りる。そこからは谷に沿って下って行き河内〜熊川間の道に出る。当時の河内温泉のちょうど横だ。当時、安本信雄さんは炭俵を背負って山越えで熊川へよく行かれたという。「(山越えの道は)おりたらちょうど温泉の玄関のとこで、そこで一服してから熊川へ向かったんや。」「藤屋という旅館があって、そっからまた、ずーっと下っていって熊川まで行った。」ということだ。温泉から熊川までは30分ちょっとで行けたらしい。そして熊川で炭を売り、生活用品を買ってまた同じ道を通って帰ってくる。米以外は熊川に出た時に買いだめしてくるので、帰り道も背中の荷物は一杯だったのだろう。それでも「朝早う家出たら、昼までに帰ってこられたんや。」というから、その健脚ぶりは現代人からは想像がつかない。
 その逆に、熊川からも行商の人が山越えで来ることがあったそうだ。ただ熊川からの来訪者は少なく、あとは葬儀の際のお坊さんくらいだったと思われる。行商に関していえば、椋川からの道が軽四輪が何とか通れるようになってからは、朽木からの行商の単車も入ってくるようになったという。それでもこの若狭行きは離村直前まで続けられていたのは、やはり生活面で便利な福井県側とのつながりが太かったからなのだろう。


※この地図データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものです


 少し話はそれるが、この河内温泉だが、私も20年以上前に1度訪れたことがある。もちろん当時はこのようなことは何も知らず、ただ秘湯に興味を持ってあちこちの秘湯を訪れていただけである。熊川から細い道をクネクネ車を走らせ見えてきたのは寂れた一軒の温泉。入ろうと思ってきたのだが、玄関で中年カップルに出会い、なんとなく入りそびれてそのまま帰ってきたのを覚えているもの、その建物などの様子についてはほとんど記憶が残っていない。「いつかまた来たいなぁ」など思いながら結局来る機会無く、ダム工事で温泉は移転してしまったのだが、今思うと残念でならない。その当時の温泉紹介の本を見てみると、立派な木造の温泉宿の写真が載っている。何でも、当時でも築90年以上もの建物だったらしい。なお上の航空写真は、『小原谷』離村直後の頃の河内温泉周辺を写したものだ。小原谷の人々は、温泉下の右から来る谷道を下ってきたものと思われる。
 先日その温泉跡を訪れてみたのだが、当時を思い出させるようなものは石段と石垣くらい。帰り道に新しくできた道から、谷底に見える温泉跡を見おろしてみると、コンクリートの枡のようなものも見えたのだが、それが何だったのかは定かではない。この夏より河内川ダムはいよいよ本体の着工に入るということで、6月に安全祈願祭が行われた。完成した後には周辺は完全水没し、その景観は大きく変わっていることだろう。そして故郷を去った人々の思いとともに、過去に何度も大きな水害をもたらした台風による大雨や洪水などから、地域住民を守ってくれるはずだ。

谷の底に残る河内温泉跡周辺。すぐ横が『小原谷』とを結ぶ谷道の起点だ。


河内温泉跡と思われる場所に残る石段。やがてこの辺りは湖底へと沈む。


新たな道から谷底の温泉跡を見ると、コンクリート枡のようなものが見える。


 話を戻す。このように、よく使われていた山越えでの若狭行きの道だが、やはり女性だけでは危険だ。信雄さんの奥さんからこういうお話をうかがった。お子さんが幼い頃に中耳炎を患った時のことだ。耳の病院が滋賀県側には無くて、小浜の病院まで行くことになった。山越えの道は、「朝早う行くと、ケダモンがいるやろ。女1人子どもおうて行くには危のうて・・」ということなので、遠回りにはなるが『保坂』まで信雄さんに車で送ってもらい、そこからはバスに乗って小浜の病院まで行ったそうだ。山越えの道はいくら近道とはいえ、やはりそこには危険も伴っていたのだ。それにしても、具合が悪い子どもさんを背中に背負って小浜まの通院は、本当に大変だったことだろう。さらに帰り道は信雄さんが仕事のため、車で迎えにきてもらうこともできない。そのため『保坂』までバスで帰ってきてからは、ずっと歩いて帰ったという。9kmの山坂道だ。先の地図で見ると、その大変さを改めて感じる。その時、保坂〜椋川間では、車が通ると手上げて乗せてもらったりしたこともあったというから、やはりそこには時代ならではのよさも感じるのである。

『保坂』集落。若狭街道と朽木、京都を結ぶ道との分岐にある歴史ある村だ。


 こういう話もうかがった。話の主は、先出の中学卒業まで『小原谷』で生活されていた男性だ。やはりその方も、山越えの熊川への道をよく利用されていたという。そしてその頃は、男手のある時には、なんと福井県の嶺南病院まで山越えルートで病人を背負っていったというのだ。幼子だけではなく、成人でもそのようにして連れて行ったというから、やはりその健脚ぶりは見事としかいいようがない。なお、お盆・正月・年末の買い出しは山越えで熊川まで行き、そこからバスで小浜まで行ったそうで、親についての小浜まで買い物が、子どもの頃には大変な楽しみだったという。普段はずっと山の中で生活している子どもの目に、町の風景や様々なお店は実に新鮮に映ったことだろう。

谷底に見えるのは『河内』と『熊川』をむすぶ道。何百年もの間、重要な道として人々の生活を支えてきたが、遂にその役割を終えて湖底に沈む、


 こうしてみると、『小原谷』の人々の生活の中において、福井県との結びつきは大変強いものがあったことがわかる。それをつなぐ山越えの道も、人々にとっては極めて身近なものだった。今は廃道となり訪れる人はほとんどなく、福井側の道の大部分もダム湖に沈もうとして、その姿は大きく変わってゆく。それでもこの道を通る人たちの数多くのドラマがあったことを思うと、見慣れない山の風景も身近に感じてくるのである。


★『小原谷』の生活

集落跡。奥は福井県境で、左手に川が流れる。夏場は雑草に被われて、これらの風景は姿を隠す。


 深い山の中にあった『小原谷』、そこに住む人たちの生業は製炭や植林などの山仕事だった。深い山の生活を何百年と支えてきた、唯一ともいえる生業だ。「生業はなんだったのですか?」と信雄さんにうかがった時に、「炭焼きのみ!」と明確なお返事が即座に返ってきたところに、先祖から受け継がれてきたこの仕事への誇りと愛情を大いに感じたものだ。
 炭焼きが行われるのは、山から雪が消えて次に山に雪が降り始めるまでの期間なので、半年間くらい。そして、その全てが周辺の山で行われていたというから、四方を囲む山林、その山々には先祖代々の生活の糧となった炭材用の木々が、何百年にわたって繰り返し大切に育てられてきたことがわかる。しかし昭和30年代後半からのエネルギー革命により山での製炭業が大打撃を受け、多くの山の男たちは生業を失う。『小原谷』もその例外ではなく、信雄さんも離村の数年前から朽木の会社勤めを始められている。それでも昭和40年代半ばの離村間近まで炭焼きは続けられていたそうだから、同じような環境にあった他の山の集落に比べると、長く続けていたのではないだろうか。

『小原谷』集落跡。枯れた雑草が積み重なり、倒壊した家屋の残骸を浮き立たせる。


 その朽木での会社勤めは、普段は家からの通勤だが、雪の降る季節になると通うことができなくなるため、冬場は会社の寮への泊まり込みを余儀なくされる。そうなると安本家に残るのは女(おんな)子どもだけ。それでも積雪の朝の登校時の雪踏みや送迎はしなければならず、家事に追われる中での雪かきや雪下ろしなども休むわけにはいかない。冬場の生活が、年を追うにしたがって困難になってきたのは間違いないところだろう。そう考えると離村までの数年間は、既に限界を超えた中での山の生活だったとも思える。

集落の手前の田んぼの跡に植えられた杉林には、きちんと管理の手が入っている。


 先の航空写真を見てもわかるように、『小原谷』では米作りも行われていた。しかし、やはり雪深い地の宿命か、田んぼの仕事は4月の末になるまでかかれず、植えるのは6月くらいになってしまうとのことだった。平地に比べると1ヶ月も遅い田植えだ。また、土地も狭く日照時間も短い。それでもこの狭い谷で自給分以上の米の収穫があったのは、小原谷の人々のたゆまない努力があったからこそなのだろう。昭和42年9月発行の今津町報のコラムには「こんな奥に部落があるのかいなと気にかかりかけた頃、忽然と谷間の稲田が広がる。巾三四十米の段々畑が三四百米続いた向こうに民家の集団がある。」と当時の『小原谷』の様子が記されている。幅が3〜40mで3〜400m程の奥行きの田んぼ、またそれに加えて「田んぼはこの部落前を主に、部落の後やわき谷にもある。」とも書かれており、そこ以外でも少しでも田んぼにできそうな土地があれば、耕して米作りをしていたことがうかがえる。そして、これらはいずれも当時の航空写真でも確認することができる。椋川からやってきた場合、支流沿いの狭い谷ながらも、広がる田んぼの向こうに蔵や大きな納屋などの見える茅葺き集落の風景が、この時代には見ることができたのである。

集落跡に残る水場。水は谷から引かれており、そのまま飲むこともできた。


 生活用水は谷から引いていた。しかし、タンクに貯めて水道管をひいて使うようになったのは、信雄さんの奥さんが嫁いできてだいぶ後になってからのことで、それまでは風呂の水など生活に必要な全ての水は、人の手によって川から汲まれていた。大変な重労働だったことだろう。谷の水はそのまま飲めたが、タンクに貯める時は炭を入れて浄化して使ったそうだ。また、どんな季節でも水が枯れることは無く、凍るということもなかったというから、水を生活の中で使うための諸設備の維持管理には手間はかかっても、水そのものへの心配はなかったようである。なお風呂は、嫁いでこられた頃は五右衛門風呂であったが、その後、タイルばりのものに変えらたそうだ。しかし信雄さんのお宅では、離村する時までプロパンガスなどの導入はせず、ずっと薪を炊いて沸かしていたという。これは、山で燃料となる薪材が豊富に採れたということからだと思われる。

集落跡に残る風呂場の残骸。後にボンベが見える。ここではプロパンガスが使用されていたようだ。


集落の少し上流。護岸工事で昔の面影はないが発電所はこの周辺にあったようだ。今は水量も少ないが、その頃の水はもっと豊富に流れていたのだろう。


 電気のことについても少しふれておく。不思議なことに、この『小原谷』には古くから川の水を利用しての自家発電機があった。先出の『湖国と文化』誌によると、昭和3年の御大典記念に作られたとある。といっても水量も限られており、豊富な電気量を望むことはできなかったが、それでも深い山の中で、この時期に電気の灯りが灯っていたというのは画期的なことだ。やはりそのことはとても珍しかったようで、当時は周辺のいろいろな小学校がこの水力発電機を見に、社会見学で訪れている。信雄さんの奥さんも小学校の頃に椋川から、その様子を見学に来られている。また、『大杉』だったか『天増川』だったかでも、小原谷の発電機見学に行ったという話を聞いたことがある。福井県からも山越えであったようで、けっこう多くの近くの学校から見学に訪れられていたのである。結局『小原谷』の電気は、戦後までこのささやかな水力発電に頼ることになるが、戦後、発電機が故障したのを機に椋川から電気が引かれたそうである。『椋川』に初めて電灯がついたのが昭和21年とあるから、『小原谷』に電気が引かれたのはそれから後のことになる。現在では発電機の施設の名残りは全く残っておらず、撤去後早い時期に跡地は多用途に利用されていたようだ。
 なお山向こうの福井県の『河内』には、大正8年に河内川に水力発電所が造られている。その姿は今も見ることができるが、ダム完成の暁にはその役目を終え湖底に沈む。

山向こうの河内川に今もある熊川発電所。渇水時には停電などがあったものの、当時では貴重な電力源だったことと思われる。


 このように田んぼや畑はもちろん、風呂や炊事・洗濯などの生活用水、そして収入源である炭焼き等々、人々の生活の大部分が周囲の山や自然の恵みからのもの。豊かな自然を直接頼りにしての生活は、自然とは遠く離れて、お金を払って水道や電気ガスなどを使う今の生活とは全く違ったものだ。周囲の自然と密着し共生してきた人々にとって、自然は時には人々の命をも奪うおそろしいものではあるが、生活を支えてくれる絶大なるものでもあると感じ、それゆえ人々の自然に対しての畏敬の念は計り知れないものがあった。そしてそれらを何百年にもわたり大切にしてきた。自然との距離が遠くなり、人工物に溢れる便利な今の世の中であっても、その源は自然に頼らざるを得ないものであることには変わりない。しかし、全てが自分たちで作り出してきたかのようにそのことを忘れ、目先の欲を満たすことばかりを考えて、本来大事にすべきものを見失ってしまってはいないだろうか。そう感じてならない。

『小原谷』集落跡。家屋が倒壊してからも、石段やコンクリート部、瓦などは、朽ちることなくその姿を残し、人の生活があったことを語る。


★寺社・冠婚葬祭など

 寺社・冠婚葬祭などに関しても少しお話をうかがうことができたのでふれておく。
 まず神社についてだが、『小原谷』にはお宮さんはなかったが、家の裏にお稲荷さんを祀っていたそうだ。「今も館(やかた)はある。」ということで、現地を訪れてみた際に確認してみたところ、祠は健在であった。小さくはあるが、何100年にもわたって村を守ってくれた宮さんだ。もちろん、今はもうご神体は移されてしまって中は空っぽになっているのだが、今でもその館(やかた)は元の住民の人々に大切にされている。

集落奥にある椿の木。その下に祠が見える。他の家屋が倒壊し、自然に還っていく中でもこうして健在なのは、村の人たちが今もなお訪れていることの証だ。


 『小原谷』の寺についてだが、これは先にも少しふれたように、滋賀県ではなく福井県の熊川にある得法寺が村人たちの檀那寺であった。『小原谷』が、かつては若狭街道の間道沿いにあった集落だということを考えると、より交流の深かったのが熊川方面だったのでそのようになったのか、そもそも『小原谷』の発生が熊川方面からの移住者によるものだったからなのか、などどのような経緯で檀那寺となっているかの明確なことは伝えられておらず、推測するしかない。同様に『小原谷』の発生についても、朽木の殿様に仕えていた武士が落ちのびる途中に小原谷に住みついたという伝承があったり、熊川からの入植者が拓いたと伝えられていたりなど、定かではない。ただ、かつて信雄さんの家の蔵には槍などが残されていたという事実があり、そのことからすると武士の系統というのも単なる言い伝えとは思えない。残念ながら戦時中にそれらは全て供出してしまっており、今はもう残されてはいない。槍などの残されたものを調べると、年代や位などのことがある程度わかっていたのだろうが、それも今となってはどうすることもできないのが現状だ。

ご神体が移されていても、村を見守り続ける祠。今でも小原谷の人々にとっては、心のよりどころとなっている。


 村で葬式などがある時は、昔はお坊さんが山越えできてくれたそうだ。通るのは、先の「小原谷〜河内〜熊川」の道である。その時は「二晩泊まらはるんや」ということで、当時のその大変な諸状況がうかがい知れる。1軒葬式が出ると、お坊さんや親戚縁者などの多くの人を泊めるので、その当事者の家だけではまかないきれず、「3軒とも葬式みたいなもんだった。」というから、村を上げての大きな行事となる。『近江の峠(著:伏木貞三/発行:白川書院)』という書籍の中の「河内越え」の項に『小原谷』のことが書かれており、現地のおばあさんの「熊川から和尚さんがな、峠を越えて来てくれると、涙が出るほどうれしかったな。」ということばの記述がある。同書についての詳細は後述するが、このことばからも、何かの行事の時は山越えで僧侶が来てくれて、村の人たちもそのことを大変感謝していた様子がわかる。

 埋葬に関しては、『小原谷』は昔から火葬であったが、今のように大きな火葬場へ行って焼いてもらうということではなく、全てを自分らの手で行った。つまり小原谷で死者が出た場合、小原谷の人たちで死者を焼き、そして死者を小原谷の地に還していったのだ。死者は、故郷の地で、故郷の人たちにより、故郷の土となる。信雄さんのおじいさんの時までそうだったというから、その歴史は長い。もちろん小原谷に立派な火葬場があるわけではなく、自分たちのところの山で遺体を焼いて、お骨を拾う。『小原谷』の3軒の家の近くの山に火葬地という所があったそうで、そこで死者は焼かれる。山から薪を切ってきてお棺の周りに置いて、お棺の上と下に炭を敷いて、乗せて、ドボドボの濡れムシロをかぶせて、灯油をかけ裏から火をつけたという。3軒の者が寄っても段取りするだけで半日はかかった。焼き終わるまで一晩かかるが、その間は誰かがずっと守をする。そうすると遺体は、どこのお骨かわからないほどにまで焼けた。朝、お骨を拾いにいくと、まだ暑くて寄り付けなかったそうである。
 このように葬式から埋葬まで全てを自らの手で行っていたが、それだけに身内の死への思いや、家族が眠る地への思いなどは、今の時代とは違った深さや密着感などがあったのではないだろうか。ちなみに先の『三谷郷土誌』によると、大字『椋川』内で火葬をしていたのは『小原谷』と『自在坊』(※自在坊は土葬も行われていた)だけで、後は全て土葬だったとある。このあたりも小原谷の発生を考えていく上でのヒントになるのかもしれない。

『小原谷』集落跡。川へとつづく道に下りる石段。


 婚姻に関してもうかがってみた。生活の上でつながりの深かった福井県の熊川であるが、婚姻に関しては、信雄さんの知る範囲では熊川から嫁いできている人はいなかったという。昭和10年のお生まれということなので、少なくとも明治半ば頃から大正以降に熊川から嫁いでこられた方はおられなかったようだ。若狭街道の間道として人の往来があった頃には福井県側からの花嫁さんもあったのかもしれないが、近年になってからは多くが椋川から嫁いでこられている。山奥の集落の場合、ともに僻地というような集落間同士でけっこう婚姻による交流はあるが、一方がそこそこ拓けた所の場合は、そこから山奥の地へ嫁いでいくということは、なかなかなかったと聞く。やはり嫁ぐ側にしたら「そんな不便な辺鄙な所へ娘をやりとうない。」という感じなのだろう。だから最奥の集落は、手前の集落から嫁の来手がないので、山を越えて反対側にある同じような境遇の最奥の集落との結びつきが深くなりがちだ。ただ『小原谷』の場合、近年においては山の向こう側の『河内』とも婚姻関係はなかったようである。生活に便利な『熊川』が近くにある『河内』の人たちにとって、『小原谷』はやはり山向こうの僻地というイメージだったのかもしれない。
 『小原谷』のことではないが、同じく椋川の廃村『上自在坊』に関して、『三谷郷土誌』に「上自在坊などは、戸数も少ないので、できるなら椋川の方と縁組をしたいとのぞんでいましたが、やはりウチノヨメ(集落内での婚姻)でした。」という、聞き取り調査の記述がある。山深い地の嫁探しは、いつの時代でも苦労があったようである。ちなみに信雄さんの奥さんは、椋川の小字『明良(あから)谷』から嫁いでこられているが、親同士により決められた結婚だったそうだ。今の時代ではなかなか考えられないことだが、この時代では特に珍しいことではない。奥さんは嫁がれるまでご実家の椋川では、それまでは鎌一つ使うことがなかったというから、山深い『小原谷』で田んぼや畑仕事、山仕事から炭焼きまで全てをしなければならない生活は、若い娘さんにとってはさぞかし大変なことだったことだろう。

買い物や通院などでのつながりは『熊川』が多かったが、学校や婚姻など日常のつながりはやはり大字である椋川の方が多かった。


 出産に関しては、信雄さんの奥さんの場合は椋川の実家へ帰り高島の病院で出産をされている。病院での出産は「在所では初めてやったんとちがうかなぁ。」ということなので、その頃は周辺地域では自宅での出産が当たり前だったのだろう。当時、椋川に助産婦さんがおられたようで、産まれる段階になると自宅まで来てもらってお産をしていた。家族で立ち会い出産というのは、今の時代ではそう珍しいことではなくなったが、自宅で出産という話はあまり聞くことはない。家で生まれ、家で死んでいく。そう思うと、昔の人たちは今の人たちより、家族の生や死をより近い所で感じていたといえるのかもしれない。そういえば自分自身の場合、幼い頃に、ある小さな病院の前を通るたびに「あんたはここで産まれたんやで」と母からよく聞かされたものだが、やはりそれが自宅であったなら、その思い入れはまた違ったものであったのだろう。さらに言うなら、その家が今も実家とかの形として残っているなら、それは自分の故郷として、帰れる場所として心強い存在となっていたのだろうなど感じる。

 山深い集落のみならず、ある時代までは、人々は家族や身内の命の誕生から命の消滅までを自然な形でより身近に体感していた。その頃と今の時代とを比べることの意味は感じないものの、家族や故郷への思いの持ち方に少なからず影響しているのではないだろうか。

壁の部分なのか屋根の部分なのか、何かの建物の残骸と思われる。



★『近江の峠(著:伏木貞三)』からの小原谷

 在りし日の『小原谷』に関することが書かれた書籍はほとんど目にしない。先出の『三谷郷土誌』にも小原谷単独の詳細についてはほとんどなく、『今津町史』も同様。『角川日本地名大辞典』にも、椋川の小字名の項に「小荒谷(ヲアラダニ)」の記載があるだけで、集落に関する説明などは一切書かれていない。これは『小原谷』が椋川の小字の集落であるからで、大字としての椋川のことが書かれていても、小字にまで深く及ぶことがないからだ。また、地元に小字単位での様々な記録の詳細が残っていないということもあるのだろう。そして結果として、『小原谷』は、地元の人以外に知られることなく消えていった集落となってしまっている。そう思うと、先出の今津町の『町報』の2つの記述、そして『湖国と文化』第56号は、量的には少ないながらも、その当時の『小原谷』の様子が書かれた大変貴重な記録といえる。
 ただこれまでに廃村となった多くの集落を見てみても、その多くが、人知れず消えていったという状況にある。そうでないのはダム建設のための移転であるとか、特別な外的要因(滋賀県でいえば自衛隊演習場関係により移転した集落など)により新聞等で取り上げられるような場合くらいなのだろうか。いずれにしても、『小原谷』がそうして人知れず消えていった集落だけに、同書のように記録に残されている事実は大変貴重なものだと思われる。

『近江の峠(著:伏木貞三/発行:白川書院)』は、1972年(昭和47)の初版だ。


 ところで、この『町報』と『湖国と文化』の他に、上で少しだけふれているが『近江の峠(著:伏木貞三/発行:白川書院)』という書には、笹ヶ谷〜小原谷〜河内鉱泉を歩いた著者の紀行文とともに、当時の『小原谷』集落の写真も掲載されている。写真として『小原谷』が残されている書籍はおそらくこれだけだろうということを考えると、短いながらも極めて貴重な記録といえよう。この『近江の峠』の中で『小原谷』について書かれているのは、「若狭へ」のいくつかの峠の中の「河内越え(小原谷越)」の項である。この本には、『小原谷』の他にも当時の山の集落や道についての貴重な記録が満載で、私のような人間にとっては、どれもが涙が出てきそうな中味だ。この本の初版発行が1972年(昭和47)なので、もう40年以上が過ぎており、古書を探してもなかなか手に入らない。ただ、大きな図書館であればけっこう見つけることができるので、興味のある方はぜひご覧いただければと思う。ここでは、少しだけ、その中味についてふれておく。

これは現在の小原谷口〜小原谷の道の様子だ。当時の道は、このような山道で『笹ヶ谷』まで続いていたと思われる。


 「河内谷へ抜ける道は笹谷から始まる。山の麓の深い樹林の中を寒風川が流れている。北西の県境へと流れるのだ。林の中の細い道をぐんぐん歩く。この奥にもう一つ部落があるとは思えない淋しい道である。道が曲がる度に首をのばす。歩き出して四十分、やっと小原谷が見えてきた。僅か三戸の家が、ふくろのような谷間に置かれている。田の稲は私の髪のようにまばらである。この日陰の田でも、畦の草はていねいに刈られている。この谷の中に生きる人のつつましさ、勤勉さが感じられる。(以上『近江の峠』より抜粋)」

 これは当時の椋川〜小原谷間の様子を記した部分で、短い文であるがその頃の道路状況の厳しさや、人気無く静かな谷の様子がよくわかる。この訪問がいつ頃のことだったのかは同書内では記されておらず、いつの『小原谷』なのかの詳細はわからない。しかし、文中のことばから読み取ってみると、

 「どの家も谷水を取り入れた池があり、大きな鯉が泳いでいる。(以上『近江の峠』より抜粋)」

という記述があり、これがヒントになりそうだ。安本さんにお話をうかがった際に、池の鯉は台風の時に全部流されたということを聞いた。その台風というのが、橋などが全部流されたあの大きな台風被害のあった時だとすると、台風が昭和40年なので、著者の伏木氏の訪問はそれ以前のことと考えられる。

池のコンクリート跡が残っているとうかがっていたので探してみた。水抜きのパイプがあるところをみると、これがそうだったのかもしれない。


 また訪問された時に、『小原谷』には2人の小学生の女の子と中学生がいたことも書かれている。

 「小学生は二人いる。その女の子たちが私たちをみて、はずかしそうに身を隠した。中学生は川端の石の上に、大きいかたつむりを歩かせ、じっと眺めている。女の子は三、五キロもある山中の道を歩いて通学している。雪の日は、分校の先生の宿舎に泊まるのだという。(以上『近江の峠』より抜粋)」
「二年生の女の子が作ったカブトムシの小さな墓にも、ムクゲが供えてあった。二人の女の子の、夏休みの遊び相手であったらしいカブトムシが死んだ時、この子らはどんな気持ちだったろうか。(以上『近江の峠』より抜粋)」

 当初ここに出てくる小学生の二人の女の子は、安本信雄さんのお二人の娘さんのことかと思っていたのだが、訪問されたのが昭和40年より以前だとしたら、上のお姉ちゃんが昭和49年の離村時に6年生だったことを思うと数字があわない。また上のお姉ちゃんが2年生だった時のこととしても台風の年に合わない。おそらく出会った小学生は、残りのもう2軒のどちらかのお宅のお子さんで、そして訪問したのは昭和40年の台風災害に遭う以前のことだったのだろう。本に載っている写真には小さく女の子が写っているのだが、その写真を安本さんに見てもらっても、写真があまりに小さすぎるため誰であるかはわからなかった。ただ、同写真に写っている茅葺き家屋は、これは上流の方から見た「安本信雄さん宅」で間違いないようだった。
 それにしても、今の時代を思うと、山深い小さな集落にこういった学齢期の子どもがいることなどまず考えられないのだが、燃料革命が起こり始めた頃には、まだそれは山の普通の光景として見ることができた。山には家族があり、子どもたちがいたのである。今現在も山からは高齢者が姿を消し、村が次々と消えていっているが、ずっとさかのぼれば、まず山から子どもが姿を消していったことがスタートとなっていた。そのことから、今後来る山村の未来を危惧する声が当時から挙っていたに関わらず、何ら効果的な解決策を施すこと無く現在に至っている現実は、決して自然の流れなどではなく国が作り出していったものである。そして農山村で人々が生活できない社会作りは、今も継続されている。

 「どの家も谷水を取り入れた池があり、大きな鯉が泳いでいる。鯉までがこせこせしていないようだ。ふんだんに入ってくる水の中で、のびのびと生きている。みのを作るスゲの束が池に浸けてある。家の前に立ってるはさの竹をくくりつけるフジが、山から切ったまま置かれている。鉄製の妙なものがあるのでいじっていると、おばあちゃんは笑った。「猪のワナやがな。手、はさまんすなや。」これを猪の通ってきそうな所にしかけておくのだという。(以上『近江の峠』より抜粋)」

 ここでは家の周りの様子が書かれている。訪問時、集落にいる大人はこのおばあちゃん一人だけだったようで、同じような状況は先の町報でも書かれていた。他の大人は山へ炭焼きに入っており暗くなるまで帰ってこない。その間、子どもたちは学校から帰ってきたら家の周りで遊んだりしながら祖母たちとすごす。生活も遊びも、全てが自然の中の毎日だ。山からの大いなる幸を受け、自然を壊さぬよう共生する生活の中の一員として、子どもたちは自然の大切さも怖さも体験する。こうして何百年という山の村の歴史を築いてきたのだった。

これは寒風川だ。晴天が続いていたこともあり、この日の水量は大変少なかった。村のあった頃は、水量豊富で、アマゴなどがたくさん釣れた。


 先の、小原谷で生まれ(昭和31年)中学生まで小原谷ですごした男性の方の、子どもの頃の一番の遊びは魚釣りだったそうで、当時はアマゴがよく釣れたという。釣れた魚が夕食の食卓に上がることを思うと、子どもでありながも、きちんと日々の食糧調達に貢献していたということになるのかもしれない。ちなみに当時の川の水量と今の水量をうかがってみたところ、「(今は)少ない!」という答えがすぐに返ってきた。やはり原因は周辺の山々の杉の植林だという。保水効果の望めない杉林は、周囲の環境や生き物の生態系も大きく変えてしまっているのである。

小原谷を流れる川。これが寒風川に注ぐ。


小魚の姿はあるものの、ここも水量は大変少なかった。


 「家の裏の細い道を行くと、古い地蔵さんが座っているこの小原谷と河内谷とをつなぐ峠は、もう名のみ残る廃道と化している。前は六、七軒あった小原谷や、椋川谷全体の人々の西へ向かう門戸であった。峠を越えなければ、人並みの生活ができなかった。生活必需品は峠を越え、河内谷の出口熊川まで行って求めた。小浜まで行くこともあった。(中略)若狭へ出るこの河内越えは小さい峠であるが、小原谷や明良谷を見おろす快い道である。峠の向こう側はもう道がなくなっていて、下りることはできても登ることは容易ではない。半ば下ると植林帯に入り、続いて捨てられた山畑の中を通る。和紙の原料となったみつまたがどれも三つの枝を拡げている。道へ下りた所に古くからある鉱泉旅館が建っている。(以上『近江の峠』より抜粋)」

 これは小原谷〜河内鉱泉間の道のことを書いたものだ。当時はもう『椋川』の人たちが日常では『保坂』や『朽木』方面へと出るようになって河内越えでの熊川行きはなくなっている。そのため、道がほとんど廃道化してしまっていることがわかる。いくら『小原谷』の人たちが、まだ日常的に利用していたとしても、なんといっても人数が少ないので、道の形態は失われていったのだろう。なお同書には、『河内』集落を越え更に河内谷を遡ると、駒ヶ岳越えで朽木の木地山へと至る道もあったと書かれている。これも山の最奥の集落同士をつなぐ道だ。古の時代にはこれら山の集落間をつなぐ道が多くあり、奥村同士の交流が見られた。杣人や抜け道に使う人々の姿以外に、生活する人たちの姿も見られたことだろう。集落が消えるとともに、山では多くの人の道も消えていくのである。

河内越えの道の福井県側の終点。これの向かって左手に河内温泉があった。


 こうして『近江の峠』を読み返してみると、それぞれの峠や周辺の道や集落など、一つ一つの枚数は少ないものの当時の様子が実によく伝わってくる。足を運び現地を訪れた人にしか感じ得ない内容や、歴史的なエピソードなどもまじえて構成されており、大変貴重で興味深い。また、これら山の小さな集落の将来を憂う著者の思いも所々に感じたりもした。高度経済成長で山村が大きく変化しているまっただ中に、山を、そして山村を歩き続けた著者にしか記すことのできなかった貴重な記録でもある。また、当時の書としては写真が比較的多く使われている点も、嬉しい限りだ。この項の最後に、同書内で名の登場する、本サイトとも馴染みのありそうな主な集落名などを以下に記しておく。

 「栃ノ木峠」「木の芽峠」「中河内」「柳ヶ瀬」「集福寺」「大浦」「海津」「山中(敦賀市)」「在原」「雨谷」「粟柄」「杉山」「天増川」「狭山」「熊川」「小原谷」「木地山」「ろくろ分校」「上根来(小学校)」「下根来」「小入谷」「生杉」「野田畑」「久多」「途中」「大原」「陀羅谷」「和束」「多羅尾」「童仙房」「神山」「槇山(伊賀市)」「大原ダム」「山女原」「千草」「蛭谷」「君ヶ畑」「茨川」「大君ヶ畑」「五僧」「杉」「保月」「柏原」「藤川」「上平寺」「笹又(揖斐川町)」「曲谷」「甲津原」「徳山村」「広瀬浅又」「土倉」「八草」


★ふるさと『小原谷』

 先祖代々守り続けてきた山、思い出の詰まった故郷の地、社会の変容の中で厳しい状況にあったとはいえ、離村を決断するにはやはり多くの葛藤があったことと思う。また離れてからの故郷への思いはどのようなものだったのか、そのあたりのことを最後に記しておく。

 まず離村の正確な年だが、昭和48年か49年のいずれかの10月末と11月の初めである。この48年か49年で離村年が明確でないのは、安本さんご夫婦ともう一人お話をうかがった方とで離村年の記憶に違いがあり、現段階ではどちらが正確な離村年なのか明確にならなかったからだ。ただ、『小原谷』の3軒のお宅は日にちに少しのずれはあったものの、いずれもが同じ年に村を離れられている。そこでここでは曖昧な表現であるが、離村年を「昭和49年頃」という表現でとどめておきたいと思う。

集落跡には、今もかつて使われていたものなどが残る。自然に還るもの、そうでないもの様々だ。


 安本信雄さんの場合は、先述のようにお子さんの学校のこともあったので、雪の降り始める前の秋、早急に出ることを決断し、子どもの自転車とか家にあった荷物などほとんどのものも置いたまま村を離れられた。村を出るにあたって、特に3軒で相談して一斉に出たというのではなかったが、信雄さんのご家族が出た後に、あとの2軒もほどなくして出られている。それまで『小原谷』が歩んできた厳しい道や、ほとんど間隔も無く全ての家庭が村を離れた経緯を考えると、どのお宅も「いよいよ村を離れないと・・」という思いを常に持たれ、出ることへの気持ちの準備もされていたのではないかと思われる。そのため、1軒が決断することを機に追従する形になったのだろう。
 離村後は、同じ町内の街部や朽木方面などでそれぞれの新たな生活がスタートし、ついに『小原谷』集落は無住となって長い歴史に幕を閉じる。それとともに、それまでは苦労しながらも会社勤務と並行して行っていた田んぼもやめた。そこに生活があったからこそ、山深く悪い条件の中でも米作りができていたのだろうし、別の生活が慌ただしくスタートした中では、とてもではないが続けるのは不可能だったのだと思われる。それでも出てから数年は、山仕事(植林)などをすることもあった関係で『小原谷』へはよく帰られており、故郷の家で泊まることなどもあったようだ。なお村を出てから後も、同郷の3軒の家の人たちが寄って食事をすることもあったというが、やはり「昔からおった、3軒の仲間やからね」の思いを互いに持たれていたからに他ならない。


現在は道から見おろすように集落跡が見える。この道は離村後に造られた作業道だ。


 「そらー、やっぱりねぇ、(小原谷を)出てきとうはなかったけどね、昔からの家なり、蔵なりが修理(の時期)がまわってきとったん。なんぼかかけなんだら(お金をかけないと)修理もでけへんし、昔の家の屋根は茅葺きで、茅もあらへんし。直していつまでおれるかを、考えたわけや。これからの若いもんは、あんなとこに住めへんし、住まれへんし、あんな奥におったら仕事もあらへんのやし、口の方へ出てきて、そこに住まへんなんだら職もないし、生活でけへんねやから。子どものこと考えて、こんなとこいつまでもおってはいけへん。」というのは、冒頭で書いた信雄さんのことばだ。高額な家の修繕費用、子どもの教育問題、就労問題を主な理由として挙げられている。しかし自然の厳しさや、生活の不便さなどについてはそのことばの中には含まれてはいなかった。もちろんそういうことは、日々の生活の中でも感じておられたのだろうし、そのことでしんどい思いもされたことだろう。それにも関わらずそのことばが出てこなかったのは、そこは自分たちで何とかなる部分、しんどくても苦労とは思わない当たり前の部分というのがあったのかもしれない。またそのしんどさ以上に自然からの恩恵も感じておられたからなのかもしれない。そのあたりに小原谷で長年生きてきたことの歴史や深みを感じるのである。

 その長年生きてきた故郷も、無住となってから後は建物の傷みも年々ひどくなり、冬の大雪はそれに加速度をつけることとなる。「(生まれ育った我が)家がくだけていくのを見て、あー、これはもうあきらめてたわ・・」「自分が生まれてきたとこやから、そら出てきとうなかったけど・・、自分も年いくし・・」というのは、「家がどんどん崩れていく小原谷を見てどう思われましたか?」という質問に対しての信雄さんのことばだ。あきらめていたこととはいえ、やはり何ともいえない寂しい気持ちを感じざるを得なかったというのは、そのことばからも伝わってくる。不便だったとはいえ多くの思い出のつまった故郷が、荒れ果て、自然に還ろうとしている姿を見る時の心境は如何なるものだったのか、それは当事者にしかわからいことなのだろう。下の写真は1993年の1月に私が『小原谷』を訪れた時のものだ。写っている家屋は信雄さんのお宅。この頃はまだ建物の原型を保ってはいたが、他の家屋は既に崩れてしまっており、この安本家と納屋と思われる建物がかろうじて形をとどめている状況だった。


完全に倒壊する直前の安本家。奥が本宅で蔵もまだ残る。(1993年1月撮影)


 この日お話をうかがった、中学校を卒業するまで小原谷で生活されていた方(昭和31年生まれの男性)の、離村後の故郷への思いは少し違っている。「小原谷へ行くことはありますか?」という問いかけに「今は小原谷へ行くことは滅多にないな。用事で行くくらい。年々行かなくなったな。」「行ってみようという気持ちにならんな・・。」「何にもないもん。形が無くなってきたら、ますます・・」ということばが返ってきた。一見クールに感じるこのことばであるが、日々の生活に追われる慌ただしい働き盛りの年齢ということを思うとそれも当然のことであろうし、「何にもないもん。形が無くなってきたら、ますます・・」ということばの中に、この方の故郷への思いを強く感じ取れるように思う。そしてこれから10年、20年と年を重ね、60代、70代になられた時に、消えた故郷への思いというのもまた変わってくるのかもしれないなど感じたりもする。


離村の時に撮影された安本信雄さん宅。いつまでも眺めていたくなるような、懐かしく感じる風景。今はもう見ることのできない、大切な‘故郷’の写真である。( ※安本信雄さん所蔵写真 )


 「ふるさと小原谷」のトップの写真、そして上の写真は、まさに離村のその時の安本信雄さん宅を撮影されたものである。もうここでの生活も終わり、せめて最後にということで写されたそうだ。この写真を見せていただいた時は何ともいえない感動を覚えた。朽ち果て、崩れていく小原谷の風景しか知らなかった自分にとって、この1枚の写真は強いインパクトを与えてくれた。それまでは、骨組みがむき出しになり役目を終えて静かに消えようとしている家屋のある、荒廃した『小原谷』の風景しか知らなかった。そこからは、どうしてもかつて生活があった光景が想像できなかったのだ。それがこの写真で一気に吹き飛んだ。そこには人が住み、温かい家庭があり、人の生活があった。その当たり前のことをようやく実感することができ、これまでの空白が埋められる、そんな気がした。
 この写真は額に入れられ、今の安本さんのお宅の仏間に飾られている。ご先祖様にも、ふるさと『小原谷』の風景がずっと見れるようにというご夫婦の思いを感じる。何でもない1枚の写真であっても、そこから感じるものは限りなく温かい。これまでのお話をうかがって改めてこの写真を見ると、そのように感じる。写真が撮影されたこの日、家屋の前に停まっている軽トラで移転地まで仏壇を運ばれたという。何百年にわたって先祖代々生活をしてきた老家屋、住み慣れた見慣れた風景に詰まる数多くの思い出、それらたくさんのものが安本さんご夫婦にとってはこの1枚の写真に詰まっていることだろう。それにしても美しい『小原谷』の風景だ。

 「今も小原谷へ行かれることはあるんですか?」と信雄さんご夫婦うかがうと、お話をうかがった日の少し前にも、大阪在住の小原谷出の方(90才の女性)がこっちへ返ってこられて、親類の人たち20数名で『小原谷』へ行かれたという。90才という高齢になられても、たとえ人が住まなくなり形が無くなった故郷でも忘れることは無く、遠く大阪から見に帰ってくる。これまでに様々な方に故郷への思いをうかがったりしたが、むしろ年を重ねるほど望郷の念は強くなっていくようにも感じる。「自分の生まれた家、家形はのうても行きたいのは、やっぱし娘時代を住んで、戦争時代を超えてきやった人らやさかい、懐かしかったことなんやと思う。」というのは信雄さんの奥さんのことばだ。若い頃はただがむしゃらに毎日を生きて、昔をふり返ることなどなかなかない。時間的にも気持ち的にも余裕がないというのも事実。それがある程度年齢を重ね、ふと自分の人生をふりかえった時、そこには遠い懐かしい故郷の日々が見えてくる。そしてその故郷を思った時、今まではふり返ることのなかった故郷が無性に懐かしく感じるようになってくる。まだ家も親も健在であれば、その故郷へ帰ればいいのだが、もうどちらもが姿形も無くなってしまっている故郷であるなら、もしかするとより望郷の思いは強くなっていくのかもしれない。


作業道より集落跡を見おろす。


 この親類の方20数名で『小原谷』へ行かれた時、信雄さんの娘さんも一緒に行かれている。今も当時の面影を残す『小原谷』への道を通る時は「ああ、ここ通ってあの歌うとてたなぁ・・。なつかしいなぁ・・」とその頃を思い出し、トイレとか風呂とかの跡の残る、かつての屋敷跡へ下りた時は「あ、ここは川や、顔洗たなぁ・・」「ここは大きい鯉がいてたなぁ・・」「ここでご飯食べたし、ここらやったやろか、寝間は・・」「ここに大きいナツメの木があって、よう食べたなぁ」ということばが次から次へと出てきたという。訪問した時がよい天気で日当りがよかったこともあったからか「よいとこやったんやなぁ・・」ということばも出てきた。
 たとえ形は変わり自然に還ってしまった故郷であっても、訪れたこの日、皆は懐かしさ一杯でその時間をすごされたそうだ。いつもは静かな小原谷も、この時は久しぶりににぎやかになったことだろう。そして最後に「ここのお地蔵さんも(今でも)いはるなぁ」「お地蔵さんはあんたらを見守ってくれてたんや」と、手を合わせて帰ってこられたという。「あこで長いことくらしてたさかいな・・」という人たちにとっては、どんなに姿が変わっていようとも故郷は故郷。やはり、いつまでも大切でかけがえのないものなのである。


村が無くなって何10年が過ぎても、訪れる度に手を合わせ、感謝する。


 この日いろいろお話をうかがったのだが、その中で特に故郷を感じ、山深い小原谷の風景を思い起こすことばがあった。もちろん私は『小原谷』とは何ら関係のない人間で当時の風景も知らない。それでもそのことばをきくと、なにか自然と当時の情景が浮かんでくる気がする。まさに山深き故郷の情景、そのことばをこの『ふるさと小原谷』の最後としたい。それは小学校に通う幼子の帰りを心配しながらも、山で炭焼きをしていた時のことを思い出しての、信雄さんの奥さんのことばだ。

 「炭焼きに出ている時には、おばあちゃんが子どもを迎えにいってくれてね。山で炭を焼いていると、子どもたちの歌声が聴こえてきてね、それで帰ってきたことがわかったん。「帰ってきたんやなぁーっ」て思ってなー。歌を歌いもってなー。歌は、ばあちゃんに教えてもらった昔の童謡とかでねえ・・」


「ふるさと小原谷」制作にあたりましては、お話をうかがいました安本様、ご紹介いただきました澤田先生を初めといたしました皆様方には大変お世話になりました。心より感謝し、お礼申し上げます。

また、本編に掲載されているものは、全てに使用権、所有権、著作権がそれぞれの方々にありますので、無断コピーおよび転売、譲渡、貸与、無断転載は絶対にお止めください。どうぞ宜しくお願いいたします。
なお写真は、安本信雄様の所蔵写真ならびに地形図、空撮写真以外は全てサイト管理人(e-kon)の撮影のものです。


参考資料は以下の通りです。
●「湖国と文化/56号」(編集・発行:滋賀県文化体育振興事業団)
●「区誌 椋川 ー資料が語る山里の暮らしー」著者:澤田純三
●「三谷郷土史」(編集:滋賀県高島郡今津中学校郷土研究クラブ)
●「今津町 町報」
●「今津町史」(編集:今津町史編集委員会)
●「上中町郷土史」(編集:上中町文化財保護委員会)
●「近江の峠」(著:伏木貞三、発行:白川書院)
●「角川日本地名大辞典25 滋賀県」(編者:角川日本地名大辞典編纂委員会) ●地形図ならびに空撮写真は、国土地理院の電子国土WEBシステムより


  2013年9月制作



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