向之倉、向倉

━滋賀県犬上郡多賀町━
昭和45年廃村


白く透明な川を渡り 山道に入る時
木々や足元が白くかわり 白い息もそれに重なる
何度も繰り返す白い息 少しずつ早くなる白い息
まだ見えぬ家の明りは遠く 見えるは 間際無く吐き出される白い息
まだ届かぬ我が家の温もり 感じるは 我が身を突き刺す風の痛み
熱く滲んだ汗さえも体を冷やし ただ下を向いて歩むのみ
背中の重さが膝をきしませ 休む余裕さえなくした時
ようやく見えた我が家の灯 待ちわびた家族の喜び
だがその明かりが消えた時 再び灯らぬ明かりとなった
二度とは灯らぬ故郷の明かり
故郷も 思い出も自然にかえり 消えてゆく





2004年12月撮影
向之倉への林道の終点が小さな広場になっており、そこに「向之倉」と表示された手書きの看板がある。下に表示されている巨木は残念ながらまだ見たことが無い。


『向之倉』は『向倉』とも記され、また「むかいのくら」「こうのくら」のどちらの読み方もされているようである。角川日本地名大辞典では『向之倉』ならびに「むかいのくら」と記されているので、これが正式なのかもしれない。また廃村となった時期も、昭和44年と昭和45年、さらに昭和50年など表記は様々ある。どれが正しいのかはわからないが、ここでは角川日本地名大辞典に記載されているもので統一させていただいた。この『向之倉』、現在は多賀町に属しているが、明治22年から昭和16年までは、水谷、屏風、後谷、甲頭倉、桃原、河内、霊仙などと共に『芹谷村』に属していた。昭和16年にその芹谷村と久徳村、多賀村とが合併して(旧)多賀町となり、その後、昭和30年に、(旧)多賀町と大滝村、脇ヶ畑の3町村が合併し現在の多賀町となっている。


2001年8月撮影
夏の向之倉。何者も近づけなくするが如く、蔦が家屋を覆い隠してしまう。夏の廃村は大体こうなってしまうものだが、ここ『向之倉』は、特に激しいように思える。


2004年12月撮影
冬の向之倉。同じ風景でも、冬と夏とはずいぶんと雰囲気が違う。夏には蔦で見えなかった家屋が姿を見せてくれる。夏のにぎやかな雰囲気が一転して、冬独特の荒涼とした雰囲気になる。この日は冬の雨の中での撮影であった。


2001年8月撮影
夏の向之倉。緑色の蔦が、トタンの壁全体を覆い隠す。役目を終えた家屋が自然にかえろうとしているのを助けているようにも思える。

2004年12月撮影
冬の向之倉。伸び放題だった蔦は枯れ、くもの巣のようにトタンの壁にからみつく。夏になると再び緑の蔦が、さらに大きく家屋を包み込むことだろう。


1993年4月撮影
11年前の寺。屋根がゆがんでいるものの、まだ手入れされており、人の温かみが十分に感じられた。


2004年12月撮影
しかし今はもう完全な廃墟と化している。屋根は崩れ、壁が落ち、人の温かみを受け入れる余地はもうなくなってしまっている。


これまでこのHPで取り上げた、また取り上げる予定である廃村の多くが、昭和40年代初めから半ばにかけて急速に過疎化が進み、ついには廃村という運命をたどっている。廃村となった村の大半は、製炭業を収入源としていた。しかし昭和30年代頃から起こった燃料革命によって、それまで主要燃料とされていた炭が石油や電気、ガスなどに取って変わり、そのために炭の需要が激減してしまった。

生活の収入の大部分を製炭に依存していたこれら山奥の寒村から、生きる糧がなくなってしまったらどうなるのだろうか。それに取って代わるような収入源があるならいいのだが、これらの地にそれが望めるはずもない。もちろん、このことだけではなく、過酷な自然条件や教育問題、道路事情などの様々な要因もからんでのことだろうが、結果として多くの集落は離村という道を選ばざるを得なかったのである。製炭業以外で多くの収入を得ることが難しかったこれらの地域の多くの村が、それまで長い歴史のある村を存続させるか、離村するかを自分たちの代で問われることとなったわけだが、結局最後にはこれといった他の選択肢もないまま「離村」という苦渋の決断をするに到るのである。そうなるまでには、当事者でなければわからない様々な苦悩、悲しみ、葛藤が多くあったことだろう。


2004年12月撮影
寺につながる住居。一階の窓には、まだガラスが残っているものもある。二階の窓は、本来は雨戸が閉められていたのではないだろうか・・。


2004年12月撮影
まだカーテンが吊ってある。窓越しに屋内を見ることができる。外から見る限り、今にも奥から住民が出てきそうな、そんな生活の匂いがまだ感じられる。


2004年12月撮影
だが中に入ってみると、室内は荒れ放題である。いろいろなものが床に散在し、棚の扉は開きっぱなしになっている。そしてもう壁は無く、風が吹き抜ける。強風でも吹けば、全て飛ばしてしまいそうだ。

2004年12月撮影
屋内から中庭を見る。ここの住民が、こうして最後に室内から外の景色を見たのは、いつのことなのか・・。今では背丈ぐらいの草が見えるだけだが、当時はどんな風景が見えたのだろう・・。


2004年12月撮影
床が抜けている所がある。タンスの扉や引き出しは開きっぱなしになっている。何を物色したのだろう・・。少なくともここを訪れた動物たちの行為ではない。


2004年12月撮影
ずいぶんと立派なかまどだ。他の家屋にも同じようなつくりのかまどがあった。同じ人が作ったものなのだろう。ここで最後に作った料理は何なのか・・。お腹を空かした子どもたちが見に来たり、手伝いに来たり、にぎやかな光景はもう二度と見ることはできない。


なかでもこの『向之倉』は、上に挙げたような状況で廃村となった寒村の典型的な例だろう。

鈴鹿山系、岐阜県境に近い芹川上流のこの地には多くの谷があり、その山腹の斜面にへばりつくような感じでいくつかの集落が点在している。山奥深い谷、昼間でも日が当たらず暗く鬱蒼としているそれらの村。それでも人々は、その斜面のわずかな平地に家屋を建て、僅かばかりの畑を耕し生活する。苦しい生活ゆえ山林の柴下草刈の権利をめぐって他村との間に、利権争いの訴訟問題も起こっている。これだけでも甚だ厳しい生活状況であるのに『向之倉』はさらに道路状況でも厳しい条件にあった。今でこそ車が通ることのできる立派な林道(舗装路)が、芹川沿いに走る道から集落までつけられているが、それは廃村となった後につけられたもので、それまでは細くて急な山道だけに頼らざるを得なかったのだ。ここの住民は徒歩によって急な山道を登る以外に、この標高300mを超える所に位置する村にたどり着くことはできなかったのである。

『向之倉』に訪れてみるとわかると思うが、なぜこんな所に集落を形成し、またそれが成り立っていたのだろう、と誰もが考えてしまうような地にある。芹川に沿って走る谷間の道から山道(今は林道)で一気に300mもの標高差を登っていかなければならない。登ってきた途中の道からは、眼下に今まで通ってきた川沿いの道を見下ろすことができる。まるで隠れ里である。


2004年12月撮影
芹川沿いの道。右上に屏風岩が見える。かつては『芹谷村』と呼ばれたこの地域、この道のゆく所には多くの廃村、過疎の村が存在する。


2004年12月撮影
芹川沿いの道から向之倉に向かう林道に入る。高度をどんどん上げながら向之倉に向かっていく。途中、車を降りて下を見おろしてみると、『甲頭倉』に向かう林道が眼下に見えた。ここからは見えないが、その下に先程通ってきた芹川沿いの道があるはずである。


2004年12月撮影
このすぐ先が林道の終点、『向之倉』である。そこに少しのスペースがある。


しかし、この集落ができた目的を考えると、このような地に人が住み始めたのもごく自然なこととして納得できる。製炭を生業とする民や良質の木材を必要とする木地師などは、その材料となるより良い木を求めて、どんどんと山奥深く入ってゆく。しかし、より良質の炭の材料となる木を見つけても、そこが生活の場と遠く離れていては、仕事のたびに長い距離を時間をかけて山奥深く入って行き、そしてまた帰って来なくてはならなくなる。さらに窯で炭を焼く時には長期間窯から離れることもできない。結果として、生活の場と仕事(製炭)の場を遠く離れた地にすることは不可能なことになってくる。だから通常では考えられないような山奥に居を構え、仕事と生活の場を近づけてより効率よく製炭のできる形態をとっていくことは、彼ら製炭を生業とする者にとってはごく当たり前のことなのだ。そして、そういった者たちが集まり、山奥に集落を形成することも自然のことといえるのである。


2004年12月撮影
崩れつつある寺。この姿を保っていられるのも、あとわずかなことだろう。しかし崩れつつある中でも、威厳・風格を感じることができる。

2004年12月撮影
装飾部分の一部が朽ち果て落ちている。全体が地面にかえるのも時間の問題だ・・。


2004年12月撮影
寺の正面の屋根も大きな穴が開いている。次は柱が朽ち果て、そして全体が落ちてゆくことになるのか・・。

2004年12月撮影
寺の正面から中をのぞく。外から想像するよりずっと中は荒れているようだ。


『向之倉』の場合、いつの時代から集落が形成されていたのか詳しくはわからないが、遅くとも江戸期には形成されていたようであるから、その時から昭和30年代後半の燃料革命までの何百年もの間、製炭を中心とした生活が変わらず営まれ続けてきたことになる。自然条件の厳しい中でもそれは続けられてきた。小さな子どもたちが学校へ行くのにも、険しい山道を上り下りし、さらに長い谷間の道を歩いて分教場まで通う。雪が積もり、石が凍る・・それでも山道を歩いて行くしか術がない。また焼きあがった薪炭を出荷するのも同様だ。男、女にかかわらず出来上がった何俵もの重い薪炭を背中に背負って、長く険しい山道を一歩一歩踏みしめて最寄の地まで運んでゆく。想像を絶する過酷なことだったに違いない。そしてそこからは大八車なりリヤカーなりで町まで運ぶ。町では薪炭を現金に換えて、必要な生活用品を購入してまた山へ帰ってゆく。今のように、大量の荷物を車で一気に運ぶなんてできるはずもない。だが、そんな厳しい環境の中でも、製炭を生業としている限りは先祖代々続いた地を離れることは決して無かった。しかし炭焼きをする必要が無くなってしまった時、炭焼きができなくなってしまった時、もう住民達には今後についての選択肢は残されていない状態になってしまったのである。


2004年12月撮影
この寺が建立されたのがいつの頃なのかはわからないが、役目を終えて静かに自然にかえるのを待つ姿は、寂しく美しい。


2004年12月撮影
側面の壁は全くなくなってしまい、残っている柱もいつ崩れてもおかしくない感じだ。果たしてこの冬を越せるのだろうか・・。


2004年12月撮影
寺の裏にまわるとこうなっている。残っている壁も板は剥がれ、土壁も落ちてしまっている。


2004年12月撮影
こういう所に必ずといってもいいほどあるのが、巨大なスズメバチの巣。ここにもいくつかあったが、いずれも大きな穴があいていた。


その永らくの生活が崩壊する時、人々はいったいどのような気持ちだったのだろう。先祖代々続いたこの地を捨てるということは、住んでおられた方にとって、どのような思いだったのだろう。この地を去らなければ生活できなくなる状況の中で、人々は何を思ったのだろうか。


2004年12月撮影
閉められていた雨戸は落ち、建物全体に苔がはえる。日照時間の少ないこの地域、人の手が入らないのであれば、腐敗の進行は思いのほか速い。


2004年12月撮影
今にも落ちてしまいそうであるが、つながれている針金によって、辛うじて落ちずに残っている瓦。住居の軒先である。


ちなみに『向之倉』の人口と世帯数の推移を見てみると、

昭和40年:世帯数12、男17人女26人、計43人
昭和45年:世帯数 5、男 5人女 5人、計10人
昭和50年:世帯数 2、男 2人女 1人、計 3人
昭和55年:世帯数 2、男 1人女 1人、計 2人
昭和60年:世帯数 0、男 0人女 0人、計 0人
(『多賀町史下巻/多賀町発行、多賀町史編さん委員会編集』より引用)

となっている。これは国勢調査による数字である。40〜45年にかけて急激に人口が減っているのがよくわかる。また廃村となったのが昭和45年(町史では昭和50年)なのに、その後も昭和60年まで人口が0人になっていないのはおかしい、と思われるかもしれないが、それは行政上の「廃村」ということなのか、それとも冬期無住集落ということなのか・・。


2004年12月撮影
トタンで覆われた茅葺の家屋。破風には「水」という文字が見える。茅葺の家屋は火に弱い。いったん火がつくと火は瞬く間に広がり村全体を焼き尽くす。記録に残っているだけでも、多くの集落が大火に見舞われている。それだけ火災は怖れられたものだった。この「水」という文字は火から家を守る、という意味なのか・・。

2004年12月撮影
この家屋には門塀が残されている。門を開けると中庭、そして玄関だ。庭にはたらいや植木鉢、そして水場の跡などが残されていた。


2004年12月撮影
非常に立派な門である。こういった山奥でこれだけの門塀があるのは珍しいのではないだろうか。いろいろな廃村を見る機会があったが、こういうのは初めてだった。特に山腹の寒村としては珍しい。


2004年12月撮影
そして玄関、しっかりした造りで品を感じさせる。立派な屋敷だったのだろう。こういった寒村とは、どうしてもイメージが合わない。


今この地を訪れると、その朽ち果てた家屋の中には多くの生活用品が残されている。まるでついこの前まで生活をしていた、というような状態でそのまま残されているものもある。それらは全て、製炭で得たものだ。長い距離、長い時間をかけて、家まで持ち帰ったものだ。暗くなってもなかなか家にはたどりつけない。疲れがたまっても休むことなく、松明を持って山道を歩き続け家路を急ぐ。そして暗がりの中、ようやく我が家が見え、帰りを待ちわびていた家族、子ども達が嬉しそうに駆け寄ってくる。そんな姿が目に浮かぶ。


2004年12月撮影
今こそ崩れ落ちた瓦や板、バケツなどが散在しているが、その昔は、ずいぶんと立派な門構えで人目を引くものだったのだろう。


2004年12月撮影
軒屋根の瓦は落ち、柱がむき出しになっている。その柱は朱に塗られた品のあるものだ。


2004年12月撮影
玄関から厨房が見える。先ほどの家屋と同じつくりのかまどが見える。炊飯用のお釜やお皿も残されている。

2004年12月撮影
ここは縁側部なのだろうか。椅子や木箱など、ここにもいろいろなものが雑然とした感じで放置されている。


しかしこの地を去る時、もう、そうして買ってきたものも必要なくなってしまった。必要の無いものだから残したまま住民は去っていったのか、それとも湧き出る思いを胸にしまいこみながら去っていったのかは、わからない。あるいは主を急に失って、それらのものがそのまま残されてしまったのかもしれない。また、新しい生活、便利になる生活に胸を膨らませて去って行ったのか、先祖代々の村の灯を消してしまうことの寂しさや無念さの涙とともに去っていったのかもわからない。いずれにしても、残された様々な物の主がいなくなってしまった事実だけを、その荒涼とした光景が伝えてくれる。


1993年4月撮影
11年前に訪れた時には、広場すぐ横にもこれら家屋が残されていた。しかし過ぎ行く歳月は、これら主を失った家屋を自然に戻し、今ではもう残るのは石垣のみとなっている。


1993年4月撮影
この家屋は当時でさえ崩壊直前であった。当然、今は何も残ってはいない。見てわかるように、ここ『向之倉』は、斜面のわずかな平地に家屋がへばりつくように建てられている。


現在この地は自然にかえるのを待つだけである。以前訪れた時に茅葺の立派なつくりを見せていてくれた家屋も全く姿を消してしまっている。残っている家屋も壁は無くなり屋根は落ち・・。この冬に大雪でも訪れるなら、さらに崩壊は進むだろう。それは自然にかえってゆく過程で仕方の無いことであるが、残された家財道具の戸が無雑作に開け放たれ、生活用品があるべき所にあるのではなく屋内外に散在しているのを見ると、何ともやるせない気持ちになる。しかし、その様子を見ると、とてもではないが自然の仕業ばかりとは思えないものもある。この地には元の住民の方の他にも、私のような部外者の訪問も多いことだろう。廃墟関係のホームページをのぞいてみても、多くのサイトで関西方面の廃墟として、この『向之倉』のことが紹介されている。いわゆる「有名なスポット」になっているのだ。それだけ訪問者も多くなる。また、サイトでの紹介のされ方も様々だ。写真に茶化したコメントをつけて面白半分で紹介されているものや、馬鹿げた心霊スポットとして紹介されているものなど、脳天気に「廃墟物件はっけ〜〜ん!」というものも少なくない。もちろん中には元住民の方からの話をまじえたりして真剣に向き合って紹介されているものもあるのだが・・。


2004年12月撮影
ここにも家屋があったのだろう。崩れ落ちた残骸のみが残っている。柱、瓦、流し台など、それに加えて新たに残されたゴミ・・。


2004年12月撮影
錆びはて、自然にかえろうとしている自転車。ここで生活していた当時は、芹川沿いの道と『向之倉』を結ぶのは山道のみのはずだが、自転車を押して山道を行き来したのだろうか・・。しかし、こういう所によくある不法投棄とも思えない。


2004年12月撮影
なぜかトイレが今でも残っている。家屋は朽ち果て崩壊しているのに、小さなトイレだけが残っているのも何か不思議な感じがする。


2004年12月撮影
ここも家屋崩壊の跡だ。左奥にかまど跡が残っている。先に述べた現存家屋と同じつくりのものだ。中央に残っている丸い石は漬物石か・・。漬物は保存食として重宝されていたのだろう。


はっきり言って元住民の方以外は、私も含めて招かれざる客、外部からの侵入者であることは間違いない。廃村といえ土地や家屋には所有者があり、残された物は全てその人たちの物なのである。人が住まなくなっても、残されているものは、全て思い出がつまっているものなのである。そこにあるものを無断で持ち帰るなど、言語道断だ。完全に犯罪行為なのだ。こうして写真を撮りサイトで紹介すること自体、住民の方にとっては迷惑以外の何者でもないことかもしれない、などと考えると、自分自身欝になってしまうのだが・・。


2004年12月撮影
これは家屋内に残されていた臼だ。毎年お正月が近づくと、皆が集まって餅つきをしたことだろう。威勢のいい掛け声が村内に響き、この時ばかりは日頃の厳しい生活を忘れ、にぎやかに年を越して新年を迎えたのだろう。しかし今はもう使われなくなり、やがて家屋の屋根も崩れ落ち、雨水がしみこむのを待つばかりとなる。


『向之倉』を訪れると特にこのような思いを強く感じてしまうのはなぜだろう・・。ここ『向之倉』の近くで時期は違うが同じように廃村となったある集落の進入路は、遂には鉄製のゲートで塞がれてしまっている。以前に訪問した時はそんなものはもちろんなかった。このことを部外者の者はどう捉えるのか、考えさせられるのである。


崩れた廃屋が自然にかえった後
  まだ懸命に自然にかえろうとしているものがあった。
1951年(昭和26年)より販売された粉ミルクの「ビタミルク」
自然にかえるまでは、もうすこしかかるかな・・
本来の粉ミルクの役割を終えた後も 空き缶は利用されていたのだろう
でも、その役割も終え、今は長い時間をかけて
ゆっくりと自然にかえるだけ
「ごくろうさま」・・・とひとこと
「そっとしておいて」・・・とひとこと



【参考資料】

財)滋賀県文化体育振興事業団:季刊誌「湖国と文化」1991年発行 第56号
角川書店:「角川日本地名大辞典25滋賀県」
ナカニシヤ出版:「鈴鹿の山と谷1」
多賀町史編さん委員会編集、多賀町発行:「多賀町史下巻」


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