向之倉、向倉
━滋賀県犬上郡多賀町━ |
2004年12月撮影 |
『向之倉』は『向倉』とも記され、また「むかいのくら」「こうのくら」のどちらの読み方もされているようである。角川日本地名大辞典では『向之倉』ならびに「むかいのくら」と記されているので、これが正式なのかもしれない。また廃村となった時期も、昭和44年と昭和45年、さらに昭和50年など表記は様々ある。どれが正しいのかはわからないが、ここでは角川日本地名大辞典に記載されているもので統一させていただいた。この『向之倉』、現在は多賀町に属しているが、明治22年から昭和16年までは、水谷、屏風、後谷、甲頭倉、桃原、河内、霊仙などと共に『芹谷村』に属していた。昭和16年にその芹谷村と久徳村、多賀村とが合併して(旧)多賀町となり、その後、昭和30年に、(旧)多賀町と大滝村、脇ヶ畑の3町村が合併し現在の多賀町となっている。 |
2001年8月撮影 |
2004年12月撮影 |
2001年8月撮影 |
2004年12月撮影 |
1993年4月撮影 |
2004年12月撮影 |
これまでこのHPで取り上げた、また取り上げる予定である廃村の多くが、昭和40年代初めから半ばにかけて急速に過疎化が進み、ついには廃村という運命をたどっている。廃村となった村の大半は、製炭業を収入源としていた。しかし昭和30年代頃から起こった燃料革命によって、それまで主要燃料とされていた炭が石油や電気、ガスなどに取って変わり、そのために炭の需要が激減してしまった。 生活の収入の大部分を製炭に依存していたこれら山奥の寒村から、生きる糧がなくなってしまったらどうなるのだろうか。それに取って代わるような収入源があるならいいのだが、これらの地にそれが望めるはずもない。もちろん、このことだけではなく、過酷な自然条件や教育問題、道路事情などの様々な要因もからんでのことだろうが、結果として多くの集落は離村という道を選ばざるを得なかったのである。製炭業以外で多くの収入を得ることが難しかったこれらの地域の多くの村が、それまで長い歴史のある村を存続させるか、離村するかを自分たちの代で問われることとなったわけだが、結局最後にはこれといった他の選択肢もないまま「離村」という苦渋の決断をするに到るのである。そうなるまでには、当事者でなければわからない様々な苦悩、悲しみ、葛藤が多くあったことだろう。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
なかでもこの『向之倉』は、上に挙げたような状況で廃村となった寒村の典型的な例だろう。 鈴鹿山系、岐阜県境に近い芹川上流のこの地には多くの谷があり、その山腹の斜面にへばりつくような感じでいくつかの集落が点在している。山奥深い谷、昼間でも日が当たらず暗く鬱蒼としているそれらの村。それでも人々は、その斜面のわずかな平地に家屋を建て、僅かばかりの畑を耕し生活する。苦しい生活ゆえ山林の柴下草刈の権利をめぐって他村との間に、利権争いの訴訟問題も起こっている。これだけでも甚だ厳しい生活状況であるのに『向之倉』はさらに道路状況でも厳しい条件にあった。今でこそ車が通ることのできる立派な林道(舗装路)が、芹川沿いに走る道から集落までつけられているが、それは廃村となった後につけられたもので、それまでは細くて急な山道だけに頼らざるを得なかったのだ。ここの住民は徒歩によって急な山道を登る以外に、この標高300mを超える所に位置する村にたどり着くことはできなかったのである。 『向之倉』に訪れてみるとわかると思うが、なぜこんな所に集落を形成し、またそれが成り立っていたのだろう、と誰もが考えてしまうような地にある。芹川に沿って走る谷間の道から山道(今は林道)で一気に300mもの標高差を登っていかなければならない。登ってきた途中の道からは、眼下に今まで通ってきた川沿いの道を見下ろすことができる。まるで隠れ里である。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
しかし、この集落ができた目的を考えると、このような地に人が住み始めたのもごく自然なこととして納得できる。製炭を生業とする民や良質の木材を必要とする木地師などは、その材料となるより良い木を求めて、どんどんと山奥深く入ってゆく。しかし、より良質の炭の材料となる木を見つけても、そこが生活の場と遠く離れていては、仕事のたびに長い距離を時間をかけて山奥深く入って行き、そしてまた帰って来なくてはならなくなる。さらに窯で炭を焼く時には長期間窯から離れることもできない。結果として、生活の場と仕事(製炭)の場を遠く離れた地にすることは不可能なことになってくる。だから通常では考えられないような山奥に居を構え、仕事と生活の場を近づけてより効率よく製炭のできる形態をとっていくことは、彼ら製炭を生業とする者にとってはごく当たり前のことなのだ。そして、そういった者たちが集まり、山奥に集落を形成することも自然のことといえるのである。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
『向之倉』の場合、いつの時代から集落が形成されていたのか詳しくはわからないが、遅くとも江戸期には形成されていたようであるから、その時から昭和30年代後半の燃料革命までの何百年もの間、製炭を中心とした生活が変わらず営まれ続けてきたことになる。自然条件の厳しい中でもそれは続けられてきた。小さな子どもたちが学校へ行くのにも、険しい山道を上り下りし、さらに長い谷間の道を歩いて分教場まで通う。雪が積もり、石が凍る・・それでも山道を歩いて行くしか術がない。また焼きあがった薪炭を出荷するのも同様だ。男、女にかかわらず出来上がった何俵もの重い薪炭を背中に背負って、長く険しい山道を一歩一歩踏みしめて最寄の地まで運んでゆく。想像を絶する過酷なことだったに違いない。そしてそこからは大八車なりリヤカーなりで町まで運ぶ。町では薪炭を現金に換えて、必要な生活用品を購入してまた山へ帰ってゆく。今のように、大量の荷物を車で一気に運ぶなんてできるはずもない。だが、そんな厳しい環境の中でも、製炭を生業としている限りは先祖代々続いた地を離れることは決して無かった。しかし炭焼きをする必要が無くなってしまった時、炭焼きができなくなってしまった時、もう住民達には今後についての選択肢は残されていない状態になってしまったのである。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
その永らくの生活が崩壊する時、人々はいったいどのような気持ちだったのだろう。先祖代々続いたこの地を捨てるということは、住んでおられた方にとって、どのような思いだったのだろう。この地を去らなければ生活できなくなる状況の中で、人々は何を思ったのだろうか。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
ちなみに『向之倉』の人口と世帯数の推移を見てみると、
昭和40年:世帯数12、男17人女26人、計43人 となっている。これは国勢調査による数字である。40〜45年にかけて急激に人口が減っているのがよくわかる。また廃村となったのが昭和45年(町史では昭和50年)なのに、その後も昭和60年まで人口が0人になっていないのはおかしい、と思われるかもしれないが、それは行政上の「廃村」ということなのか、それとも冬期無住集落ということなのか・・。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
今この地を訪れると、その朽ち果てた家屋の中には多くの生活用品が残されている。まるでついこの前まで生活をしていた、というような状態でそのまま残されているものもある。それらは全て、製炭で得たものだ。長い距離、長い時間をかけて、家まで持ち帰ったものだ。暗くなってもなかなか家にはたどりつけない。疲れがたまっても休むことなく、松明を持って山道を歩き続け家路を急ぐ。そして暗がりの中、ようやく我が家が見え、帰りを待ちわびていた家族、子ども達が嬉しそうに駆け寄ってくる。そんな姿が目に浮かぶ。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
しかしこの地を去る時、もう、そうして買ってきたものも必要なくなってしまった。必要の無いものだから残したまま住民は去っていったのか、それとも湧き出る思いを胸にしまいこみながら去っていったのかは、わからない。あるいは主を急に失って、それらのものがそのまま残されてしまったのかもしれない。また、新しい生活、便利になる生活に胸を膨らませて去って行ったのか、先祖代々の村の灯を消してしまうことの寂しさや無念さの涙とともに去っていったのかもわからない。いずれにしても、残された様々な物の主がいなくなってしまった事実だけを、その荒涼とした光景が伝えてくれる。 |
1993年4月撮影 |
1993年4月撮影 |
現在この地は自然にかえるのを待つだけである。以前訪れた時に茅葺の立派なつくりを見せていてくれた家屋も全く姿を消してしまっている。残っている家屋も壁は無くなり屋根は落ち・・。この冬に大雪でも訪れるなら、さらに崩壊は進むだろう。それは自然にかえってゆく過程で仕方の無いことであるが、残された家財道具の戸が無雑作に開け放たれ、生活用品があるべき所にあるのではなく屋内外に散在しているのを見ると、何ともやるせない気持ちになる。しかし、その様子を見ると、とてもではないが自然の仕業ばかりとは思えないものもある。この地には元の住民の方の他にも、私のような部外者の訪問も多いことだろう。廃墟関係のホームページをのぞいてみても、多くのサイトで関西方面の廃墟として、この『向之倉』のことが紹介されている。いわゆる「有名なスポット」になっているのだ。それだけ訪問者も多くなる。また、サイトでの紹介のされ方も様々だ。写真に茶化したコメントをつけて面白半分で紹介されているものや、馬鹿げた心霊スポットとして紹介されているものなど、脳天気に「廃墟物件はっけ〜〜ん!」というものも少なくない。もちろん中には元住民の方からの話をまじえたりして真剣に向き合って紹介されているものもあるのだが・・。 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
2004年12月撮影 |
はっきり言って元住民の方以外は、私も含めて招かれざる客、外部からの侵入者であることは間違いない。廃村といえ土地や家屋には所有者があり、残された物は全てその人たちの物なのである。人が住まなくなっても、残されているものは、全て思い出がつまっているものなのである。そこにあるものを無断で持ち帰るなど、言語道断だ。完全に犯罪行為なのだ。こうして写真を撮りサイトで紹介すること自体、住民の方にとっては迷惑以外の何者でもないことかもしれない、などと考えると、自分自身欝になってしまうのだが・・。 |
2004年12月撮影 |
『向之倉』を訪れると特にこのような思いを強く感じてしまうのはなぜだろう・・。ここ『向之倉』の近くで時期は違うが同じように廃村となったある集落の進入路は、遂には鉄製のゲートで塞がれてしまっている。以前に訪問した時はそんなものはもちろんなかった。このことを部外者の者はどう捉えるのか、考えさせられるのである。 |
崩れた廃屋が自然にかえった後 |
【参考資料】 |
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■e−konの道をゆく■ |