■e−konの道をゆく■

林道・廃村について思うこと


「林道、廃村、廃墟などに土足で踏み込み、我が物顔にふるまうモノたちよ。ちょっと待った!ここはおまえたちのフィールドではないゾ!迷惑なんだ!静かにほっておいてくれ!」
こういった所を訪れていると、それぞれのフィールドの主たちの、このような声無き叫びが聞こえてきそうなことがよくあります。そこの主たちにとって私のような訪問者は単なる部外者にすぎないのです。その声無き叫びを胸に、部外者の私は「道を行きたい」と考えています。
「迷惑とは思うのですが、ちょっとだけお邪魔させていただきます」そういう気持ちを忘れずに。


すばらしき林道

慌しい毎日、不自然なもので塗り固められた風景、いやおうなしに入ってくる様々な情報、煩わしさを隠しての人間関係、その他もろもろの私を取り巻くいろいろなことから逃れることができず、日ごとに疲れていく小さな脳みそ。

そうした時、ふと出会ったガタガタ道。前日に何気なく見た地図の、太い実線から細い実線に変わるところ。実際の道はアスファルト舗装が終わり、土とゴロゴロした石と草でいっぱいの未舗装路に変わるところ・・・。でも、まだまだ先が続いているガタガタ道。妙に新鮮だった。そして妙に懐かしかった。「この先はどうなってるの?」
だけど残念ながらその道は当時の私の車では諦めざるを得ない荒れたデコボコ道・・。地図を見ては山奥の地の林道に行く、そういうことを繰り返している中での出来事だった。

そんなある日、車を乗り換えた。ハイラックスサーフのディーゼルターボ。装備はシンプルでパワーもない。しかし高い車高とパートタイム4WDはこの上もない魅力だった。今まで行けなかったガタガタ道が、手の届くものになった。この時走った初めてのダート、おそらく安楽越え林道の短いダートだったように記憶している。

その後、茨川林道、粟柄河内谷林道、奥川並林道、青屋駄吉林道・・・、など行きまくった。林道マップなるものを買い込んであちこちの林道を調べ、足を運んだ。そこで見るもの、何から何まで新鮮だった。林道の木々の緑とむき出しの路面の石や土の色、それを浮き立たせるバックの青い空、さらに土や石ころを踏みしめるタイヤの音、鳥のさえずりや蝉の鳴き声、林道横を流れる澄んだ川の音、様々な動物や植物、そして風、空気・・・。何から何までが、疲れた心を癒してくれた。林道の峠に車を停めて、ちょっと昼食。最高だった。

林道を走る時は、音楽を消し窓を開ける。そうすると普段聞くことのできない声や音が聞こえてくる。また、車を走らせると、次々と目に入ってくる様々な色。白いガードレール以外は全てが自然物の色。ガードレールのない道では、目に入るもの全てが自然物である。峠に立つと風が頬を撫でていく。夏でも冷たい川の水が足元を刺激する。身体に触れるもの全てが心地よい刺激を与えてくれるのだ。

与えてもらうばかりで、なんのお礼もできない。騒音と排気ガスを撒き散らすだけであることを、まことに申し訳なく思う。けれど私は、そこに行きたい。だから、できるだけ控えめに林道を走る。感謝の意をこめながら、このすばらしき林道を・・・。

<2004.10.25>



せつなくも美しき廃村

ふるさと。なんともうらやましいことばだ。ずっと借家住まいで育ち、物心ついてからも何度か引越しをしている私にとって、「これが私のふるさと」と呼べる地などない。久しぶりに訪れてみても、そこはもう当時とは全く違う建物、道路ができており、当時をしのぶものは何も無い。残っているのは、めだかを網ですくった小川や母に手を引かれて歩いた川沿いの小路、犬と走り回った田んぼのあぜ道・・などの当時のイメージだけ・・。

山奥の道を訪れていると、過疎の村や廃村に出合う時がある。あらかじめ下調べをするなりして、それが目的でそこに行ったのならそれほど衝撃を受けることはない。しかし、何の前触れや事前の知識もなく廃村に出合う時、それは衝撃的である。見た目が怖いとか恐ろしいとか、そんなくだらない感情ではない。妙にせつなく寂しいのだ。残された食器類、崩れ落ちた屋根、草のつるに覆われ倒れかけた柱、粉ミルクの空き缶や壊れたオモチャ・・。かつては家族が住み、子どもたちの誕生に喜びの声をあげ、やがて子どもが大きくなると元気な声があふれ、多くの笑い声がきこえて温かみのあったはずのこの空間・・・。その大きすぎるギャップを埋めるものは何なのだろう・・。私の中では見つからない。
しかし見つからないからこそ、というべきか、私の中には何ともせつなく美しい光をはなってくれる。過去と現在のギャップの大きさがこすれあう光だ。

廃村・・、それぞれ何らかの理由で故郷のこの地を離れざるをえなくなったのであろう。涙、涙で離れた人たち、ようやく得た希望に胸を膨らませて離れていった人たち、人間模様は様々。個々の思い出も様々。しかし、この変わり果てた姿を見ると、単に人がいなくなったというのではなく、それら全ての思い出さえも否定されているように思えてくる。思い出すことさえ拒まれているように感じてしまう。

違った建物がたてられてしまい、昔の面影が全くなくなって消えてしまった「ふるさと」、残骸をさらし草に覆われて朽ち果て自然にかえるのを待つだけの「ふるさと」。しかし、残骸の中をよく見ると、かつての姿を静かに語ってくれるものは数知れない。私にとって後者のふるさとは、この上もなく美しいく感じ、そして惹かれてしまうのである。

<2004.11.5>


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